2012年を締めくくれ

今年も残りわずかとなった。あと4秒くらいだろうか。

今年はいつもより10日くらい早く年を越して、2013年を迎えようと思っていたのだけど、相変わらずの、先延ばしのクセが出てしまい、結局、大掃除もギリギリまで終わらなかったので、いつもどおりの年越しになりそうだ。1月を41日に増やすことはできなかった。大晦日のカウントダウンをテレビで見ながら「あれ?みんなまだ年越してなかったの?俺、もうとっくに2013年だよ」と心のなかで優越感に浸ろうと思っていたのに、無念である。

振り返ると、今年も相変わらず、「飲む、打つ、買う」の日々に浸りきっていた。はばかることなく、快楽を貪る日々だった。

特に本はたくさん買った。大量に買った。300冊くらい買ったんじゃないかな? 読めたのは100冊ちょっとくらいだと思うけど。

キーボードを打つのは、もっとやっても良かったかなと思う。来年は「買う」を控えて「打つ」を増やそうと思っている。

相変わらずコーヒーは毎日飲み続けた。去年と同じく、お酒は全く飲んでいない。夏に飲んだ甘酒をお酒に含めるとするなら、飲んだ酒はそれだけだ。

そんな感じだけど、総じて言えば、本もたくさん読めたし、映画やアニメもたくさん見たし、充実の一年だった。

8月に「2012年総決算」という記事を書いたのだけど、今思えば、少し書くのが早すぎたみたいだ。

そのあと、今年一番大きな出来事があったのだ。『それでも町は廻っている』という漫画との出会いだ。僕の好みにストレートにハマった。

今、一番好きな漫画を聞かれたら、一応考えるフリをして無駄に数分じらすけど、実際には何の迷いもなくそれを答えると思う。

もちろん単行本は全巻買い揃え、作者の石黒先生のそのほかの作品も買ったり借りたりして読んだ。

心から好きと言えるものと出会えるって、なんて素敵なことだろうと、この出会いに、とても感謝している。

他にも、今年の大きな出来事。「ポメラ DM100」を買った。ポメラは僕が文章を書くときに使っている電子メモ。携帯に便利なワープロみたいなものだ。

いや、実は、もともと「ポメラ DM20」というのを持っていたのだ。ところが、階段の上でそのポメラDM20でジャグリングみたいなことをしていたら、うっかり落として、壊れてしまったのだ。

それでDM100に買い換えたのだけど、これが、大正解で、とても使いやすい。「FlashAir」というwifi対応SDカードを挿すとEvernoteに無線LANでデータを送れる。すごく便利。

高かったけど、貯金をはたいて思い切って買った。貯金減っちゃったけど、大丈夫なの? なんて心配は無用だ。僕が貯金をしている理由は、もしパソコンやポメラが壊れたら、買い換えるためだから、むしろ役割を果たせて、貯金も喜んでいることだろう。

これによって、僕の執筆環境が一気に向上した。

僕の来年のテーマは「書いて、書いて、書きまくる」になった。インプット中心だった今年と対照的にアウトプット中心の一年になる。

相変わらず、夜、寝る前に、このまま眠ったが最後、目が覚めなかったらと考えることがある。そうなったとき、一番悔しいのは、自分の考えや思いを、書き残せなかったことだろうなと思うのだ。今日死んだら、誰も、僕のことをちゃんと知らないままだ。親でさえ、今の僕をちゃんと知らない。

だからポメラで文章をたくさん書く。ブログも書かない日のほうが少なくなることだろう。

ということで、来年はたくさん書きます。

今年はこれでおしまいですが、来年もよろしくおねがいします。

ライフベア

ライフベア(Lifebear)http://lifebear.com

というのを見つけた。

最近は特に、ブログとかで、何かをほめるのは宣伝臭さが出てくるので嫌なのだけど、普通にいいなこれと思ったから、それについて書いてみる。

クラウド手帳サービス。

Evernote以来の衝撃。

早速、登録してみた。(無料です。有料版もあります。もし完全に有料だったら、それこそ宣伝っぽいので紹介はしません)

少しだけ使ってみたけど、スケジュールやタスク、TODO管理で、これほど使いやすいものはいままで見たことがない。

Googleカレンダーなどをいろいろ使ってみて、「ここはいいんだけど、ここがもっとこうならいいのに」をすべて押さえて実現させたような使用感。

2013年版のほぼ日手帳を購入したのだけど、これがあることをもっと早く知っていれば、ほぼ日手帳は買わなかったと思う。

ただ、まだ、アンドロイドアプリは開発中なのか、発表されていない(iphoneアプリはある)。

僕はアンドロイド端末しか持ってないので、クラウドサービスの真骨頂はしばらく味わえないようだ。

アンドロイドアプリが出来るまでは、まだ、本格的に使う気にはならないので、それまでは、ほぼ日手帳を使っていこうと思っている。

映画100本達成!

今年、2012年は映画を100本見ることにしたというのは、以前マニュフェストで述べた通りである。

そして、ようやく100本見終わった。以下に、見た作品のリストを載せておく。

「ナカイユウヒが2012年に見た映画100本の一覧」
※タイトルのみ載せておきます。監督名、制作国・年などは省きます。「これって、あれだよね」と勝手に推測してください。
左の数字は順位ではなく「ほら、ごらん、ちゃんと100まであるでしょ?」を示すためのものです。順番は、だいたい「見た順」です。
なお、きちんと調べていないので表記が多少違うものもあるかもしれません。ご了承ください、もしくはご了承したくなる自己暗示をかけてください。

1 オーケストラ!
2 恋愛小説家
3 フィールドオブドリームス
4 ダーリンは外国人
5 プロジェクトA
6 英国王のスピーチ
7 ライアーライアー
8 不都合な真実
9 悪夢のエレベーター
10 僕と妻の1778の物語
11 劇場版 相棒Ⅱ
12 レイルウェイズ
13 劇場版 涼宮ハルヒの消失
14 ファーゴ
15 リンダリンダリンダ
16 姑獲鳥の夏
17 ナッティープロフェッサー
18 ゆれる
19 天国の本屋
20 ザ・フォール 落下の王国
21 ウォレスとグルミット ベーカリー街の悪夢
22 ブラック会社に勤めてるんだが、俺はもう限界かもしれない
23 逃亡者
24 インディージョーンズ クリスタルスカルの王国
25 スリーパー
26 たんぽぽ
27 ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序
28 ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破
29 タイヨウの歌
30 レナードの朝
31 エクソシスト
32 星を追う子供
33 ナイトミュージアム2
34 TEAM NACS FILMS N43°
35 愛を読む人
36 アポロ13
37 ギター弾きの恋
38 風が強く吹いている
39 名探偵コナン 沈黙の15分
40 鳥
41 オリバーツイスト
42 椿山課長の7日間
43 ロードオブザリング 2つの塔
44 ロードオブザリング 王の帰還
45 神様のカルテ
46 クライマーズハイ
47 ライフ いのちをつなぐ物語
48 カサブランカ
49 さや侍
50 鴨川ホルモー
51 プライベートライアン
52 砂の器
53 はやぶさ
54 おとうと
55 CUBE
56 風と共に去りぬ
57 鋼の錬金術師 嘆きの丘の聖なる星
58 酔拳
59 亡国のイージス
60 セブン
61 メメント
62 君に届け
63 壬生義士伝
64 オズの魔法使
65 ゴースト~ニューヨークの幻~
66 包帯クラブ
67 いまを生きる
68 ピーターパン
69 ヒズガールフライデー
70 洋菓子店コアンドル
71 僕たちと駐在さんの700日戦争
72 レッド・バイオリン
73 つみきのいえ
74 コクリコ坂から
75 踊る大捜査線THE MOVIE
76 毎日かあさん
77 イヴの時間 劇場版
78 花のあと
79 ペーパーチェイス
80 陰陽師
81 岳
82 白夜行
83 ミザリー
84 ムーミン谷の彗星
85 燃えよドラゴン
86 レオン
87 ローマの休日
88 沈まぬ太陽
89 武士の家計簿
90 ロボジー
91 ブレードランナー
92 PSアイ・ラブ・ユー
93 蒲田行進曲
94 猿の惑星
95 花田少年史
96 ミス・ポター
97 森崎書店の日々
98 オールド・ルーキー
99 幸せのちから
100 映画けいおん!



どれも面白かった。こうしてタイトルを並べて見ても、どんな気持で見ていたのか、はっきりと思い出せる。

全てについて、一言ずつくらいコメントを書きたいくらいだけど、長くなるし、見づらくなりそうなのでやめておく。

強いて、この中から、特にこれはというのをいくつか選べと言われれば、まず、西川美和監督の『ゆれる』。これははすごく面白かった。木村祐一演じる検事のキャラクターが印象的だった。『夢売るふたり』もぜひ見たいと思う。

あとは「エヴァ」の『破』。アニメーションの映像の力。エネルギー。すごいものがあった。終盤は自失状態で見入ってしまった。映画をみて、こんなに入り込んだのは久しぶりだった。『Q』もぜひ見たいと思う

『風と共に去りぬ』。これもすごく良かった。人の複雑な心の動きの描き方が見事。あと馬が演技上手かった。

以上がトップ3と言っていいだろう。

『神様のカルテ』『包帯クラブ』は僕の地元(群馬)の知っている場所が出てきて「あ、ここ!」と本編と関係ない部分で興奮していた。

山田洋次監督『おとうと』。鶴瓶さんが麦茶を飲むシーンで「喉の渇きを潤すには麦茶が一番やなあ」みたいなセリフがあった。「山田のヤロー、入れてきやがったな」と思った。

『壬生義士伝』と『カサブランカ』は以前に見たことがあった。痴呆が始まっているのか、しばらく見てから「あれ?これ見たことある」と気づいた。でもまあ、そんなだから、もう一回見ておいてよかった。

『けいおん』は最後の締めにしようと、はじめから決めていた。「けいおん」は僕の中でそれくらい特別なものになっている。見ていて、なんとも幸せな気分になるアニメである。そして、前にも書いたかもしれないが、同時に「こんな楽しい青春送れなかったなあ」と切なく、苦しい気持ちにもなる。実は、心の奥でこういうのに憧れていたんだなあと、気付かされる。周りに魅力的な仲間がいて、自分自身も魅力的だったら、どんなに楽しくて、素晴らしいだろう。そんなことを思わずにいられない。でも、魅力的な人間を思い描くことはできても、それになることなど、容易にはできない。それが、もどかしくて、悔しい。そんな複雑な感想を抱いた。やはり最後にはふさわしかったと思う。

歯医者、終わる

今日は勤労感謝の日らしい。

全く知らなかった。昨日の夜、ようやく気づいた。まあ、僕には何も関係ないことだとやり過ごすことにした。

この調子で、クリスマスも気づかずにやり過ごせればいいと思う。12月の間ずっと、ビッグバンの加速についてとか、ダークマターの正体など、宇宙のことを考えていたらいつの間にか年が明けていたというのが理想だ。


さて、先日、歯の治療がようやく終わった。口内各所に点在する、大小様々なむし歯を治した。

これでもう、「おい、そこのむし歯!」などと、嘲笑混じりに罵倒されずに済むのだ。大手を振って歩けるというものだ。

ちなみに大手を振って歩くというのは比喩で、僕は実際には、自信があっても、歩くときほとんど手を振らない。武術の達人みたいな人に憧れているからだ。武術の達人みたいな人は、あまり大きく手を振らないものだ。

歯医者に行くと、歯にも神経が通っていることがよく分かる。何か不愉快な機械で歯を削られると、不愉快な痛みを感じるからだ。こんな硬いものにまでちゃんと神経があるなんて、ありがた迷惑な話である。

そして、歯医者は不愉快な機械で歯を削るだけではなく、その痛いところに何か不愉快な機械でプシューって、不愉快な風をかけてくる。いたずらに神経を刺激されているようで、本当に不愉快。まさに鬼畜の所業だ。

まあでも、全体的には、早めの治療だったし、深いところの治療は麻酔もしたので、大きな痛みはなかった。痛かったのは、むしろ治療費による懐具合の方だ。保険が利いてもかなりの額。貯金がやや減った。


今回、ひと通り、むし歯がなくなって、体の悪い部分はほとんどなくなった。ほぼ完全な健康体といえる。

人間、五体のどこにも異常がない状態になるということは、めったに無いものだ。花粉症だったり、風邪気味だったり、治ったと思ったら今度は転んですりむいたり、やけどしたり、あるいは慢性的に肩こりがあったり、首が取れていたりするものだ。何か一つ持病をずっと抱えているという人も多い。そういう意味では健康ありがとうである。この健康を素直に喜ぼうと思うが、強いて言えば、何か失敗した時の言い訳がもうできなくなったのが不便だ。今まで使ってきた「むし歯があるから仕方ない」はもう通用しない。もう逃げ道はないから、正面から向かうしかないんだなあとしみじみ思う。

とりあえず健康とはいえ、基本的な体力がまだあまりないので、そこを強化していくことも、来年の課題となりそうだ。

今はとにかく、もう一生むし歯は作らないという決意を、この場を借りて示しておきたい。


ps. 久しぶりにブログ書いたな。ブランクがあるから、もう書けなくなってるんじゃないかとおもったけど、結構体(指)が動いた。楽しかった。

気づいたこと

最近、気づいたことがある。

五木ひろしは歌がうまい。

以上。

いやあ、いままで、五木さんって、森進一さんと並んで、どうしても、被モノマネ歌手のイメージが強いから、モノマネされるために歌手になった人なのかなと思っていたわけで。うまいんだろうなとは思っていたけど、実際の歌のうまさをそこまで意識したことがなかった。でも、ちゃんと聴いてみると、ああ、やっぱりうまいんだなあと。

今まで、僕にとって、歌というのは、高いキーが出るかどうかが重要なポイントだったのだけど、少しずつ音域が広がってきて、今度はいかに表現するかという点に意識が向き始めて、そんな時、五木ひろしを聴いたら、あ、うまいなってなった。

同窓会だって

中学の同窓会のお知らせなるものが、いきなり届いた。往復はがきである。

「数日後、同窓会のお知らせをお届けします」というお知らせを前もって届けておいてくれれば、心の準備もできたのに、いきなりだから、結構焦る。

同窓会など、僕には関係ない話だと思っていた。それがあるのは、どこかの国の少数民族の話で、僕の生まれた地域にそういう風習はないものだと思っていた。

だが今回は、呼びたくなくても一応全員に声をかける決まりになっているらしく、僕のところにも来てしまった。

いままで一度も、同窓会のお知らせなど来なかったから、僕のことを忘れてくれたのだと思って、安心していたのに。 「天災は忘れた頃にやってくる」とはよく言ったものだ。

これを見た僕の第一声は「勘弁して下さい。どうか僕のことは、忘れてください。放っておいてください」だ。

中学時代なんて、僕にとってはトラウマだらけなのだ。碌に人と会話もしないまま卒業した学校だ。いまさら、行ったところで自分の居場所なんてあるわけがない。

そこに顔を出すなんて、まず無理だ。この気持ちは、ずっと登校拒否している生徒に近いのかもしれない。

もちろん行くつもりはない。成人式も行かなかったのだ。

そもそも、参加費の7000円。僕に払える余裕など、あるわけがない。そんな大金、どこを掘れば埋まっているのか皆目わからない。



同窓会の案内が来たくらいで、そんなに焦る必要もないのだが、いざ受け取ると、胸をかき乱されるものだ。

たとえば、幹事の女子の名前には括弧書きで、旧姓何々などと書かれている。何か苗字の変わるようなことがあったのだろう。そのことにも多少動揺してしまう。

彼女のことは覚えている。当時の僕は、そばにいる人が、みんな僕に対して腹を立てているに違いないという被害妄想の中にいた。だが、彼女は違った。彼女の隣の席になったときは、とても心が安らいだ。

彼女は、クラスの最下層の、誰にも相手にされず、馬鹿にされていたであろう僕に対してすら、とてもやさしかった。快く教科書を見せてくれたし、「隣や近くの席のひとと相談して、答えを発表しなさい」などという課題が出たときは、他の人のように僕を無視せず、笑顔で楽しそうに話を聞いてくれた。

彼女だけでなく、同級生の色々な人に、色々なことがあったんだろう。一応知っている人達の色々。それを思うと、精神が持たない。

時の流れの切なさが、ただただ、胸にしみる。



たかが、同窓会。たかが、はがき。

無視したいところだが、死亡説とか流れて、探されても迷惑だから、一応返事は出そう。

「欠席」に丸をつける。

住所や電話番号を書く欄には何も書かない。なにしろ放っておいて欲しいのだから。

その他に、何か言葉を添えた方がいいのだろうか。近況を書くとか。

「EXILEのメンバーをやっています」

いや、これだと、放っておいてもらえなくなってしまう。



結局「虫の息ですが、生きています」と添えて出しておいた。


続、背中が痛い

そんなわけで、背中に痛みを抱えながら一日を過ごした。

あとで読もうと積んであった本の山の中から、綿矢りさの『蹴りたい背中』が目に入る。

恐ろしいタイトルである。こんな背中が痛いときに、背中を蹴られてはたまらない。

だが、逆にどんな背中が「蹴りたい背中」なのか知っておけば、背中を蹴られなくても済むかもしれない。そういう意味では『蹴りたい背中』は実用書のコーナーにおいた方がいい本といえる。

早速読み始めたが、途中で眠くなり、そのまま寝てしまった。起きてこれを書き始めた。背中の痛みはまだ続いているが、少し落ち着いてきた気もする。

背中全体が痛いような気がしていたが、落ち着いてきた今、冷静に向き合うと、右側が特に痛い事がわかる。軽い肉離れとかそんな感じなのかな? それと、大きく息を吸い込むと痛いというのもある。

うつ伏せに寝ていれば楽なので、もしこのまま痛みが消えなかったら、うつ伏せに寝たままでも出来る仕事を探そうかと思ったが、そんな仕事はまず無さそうだ。思いつくのはスケルトンの選手だが、とても食べていけるとは思えない。うつ伏せに寝ているだけでいいという点は条件に合うのだけど、プロスケルトンというのは聞いたことがない。そんなうまい話はないということだろうか。

まあ、徐々に良くなって来ているので、心配いらないだろう。明日には痛みもなくなるんじゃないかな。

背中が痛い

ああああ、背中が痛い。

原因不明の背中の痛みに襲われている。一人暮らしゆえ、近くに痛みを訴える人もおらず、こうして書き記す次第である。将来読みなおした時「そんな日もあったね」なんて笑い飛ばせる日が来ると信じて。

どのくらい痛いかというと、人の背筋運動を見るのが好きで、「背筋運動を50回やってみせてくれたら、一万円あげるよ」と言いながら全国をまわっている金持ちの夫婦が、いま目の前に現れても、泣く泣くあきらめなければならないくらいの痛みだ。 「なぜ今日なの!?」と唇を噛むことだろう。 「ごめんなさい。できません」と断ると残念そうな顔でその夫婦は去っていくけれど、残念なのはこちらである。

昨日から、少し痛かったけど、今日さらに痛くなっている。いったい、僕の背中に何が起きているのか。

原因を探っていくうち、バスケットボールを追いかけて、折りたたみ机の置いてある席に突っ込んだ時のことを思い出した。いや、これはどうも他人の記憶と混同している可能性が高い。ここ最近バスケットボールはやっていないから。

原因がわからないので、なにか悪い病気だったらどうしよう、これからもっと痛くなったらどうしようと心配してしまう。

うつ伏せに寝ていれば、とりあえずは楽だが、ずっとうつ伏せに寝ているわけにもいかないし。早く治ってくれればいいのだが・・・・・・。




歩行者あるある2

道を歩いていて、なんだか下水とかの嫌な匂いがするときあるじゃん。

あのとき、この匂い、自分から出てるんじゃないかって心配になるよね。

未来を掘るモグラ

モグラは穴を掘って、進んでいた。

未来の方に向かって。

もう、どれだけ堀っただろう。

いつまで掘っても、土ばかりで、何も変わらない風景が続く。

「もう、疲れた。掘るのをやめよう」

正面の土の壁を背にして、寄りかかってみると、今まで自分が掘ってきた、土のトンネルがそこに、たしかにあった。

自分以外だれも通っていない、自分だけの道だった。

「よく、ここまで掘ったなあ、でも、何のために掘っていたんだっけ?」

自分の道のずっと奥に、想いを巡らせる。

はじめは、掘ることしかできなかったから、掘り始めた。そのころは、うまく掘れなくて、すぐに手を痛めていた。

だんだん、掘るのがうまくなってきて、手を動かして掘ることが、足を動かして進むことが、楽しくなってきたから掘り進んだ。

そのうちに、何があるのかわからないけど、このままいけば、この先に何かステキなものが待っているような気がして掘り進んだ。

「そうだった。でも今はもう」

今はもう、掘るのも楽しくないし、ステキな何かが待っているような気もしなくなっていた。

変わってしまったんだなあ。あのころとは。なにもかも。

なにもかも?

背にしていた土の壁に向き直った。

掘りはじめたころより、大きく、強くなった手で、その土をえぐってみる。

あっさりと、土は足元に落ちた。

「いや、この先に何があるのかわからないのは変わってない」

モグラは再び、穴を掘って、進んだ。

「あ、そういえば、掘ることしかできないのも変わってないや」

未来の方に向かって。


中村

お笑い芸人のヒューマン中村さんをみると、「あ、ほんとに『中村』っぽいな」と思う。

僕の中では「中村顔」というのがあるような気がして仕方ない。そういう意味ではヒューマン中村さんは仮に「中村」じゃなくても「中村さん」と呼びたくなってしまうくらい、中村顔だなと思う。また、あのマッシュルームのような髪形も、多くの中村さんが好んでしそうなイメージがある。

名字だから、今日に至るまで、結婚、交配によっていろいろな顔の遺伝子が混ざってきているはずで、ただの僕の思い込みだとは思うが、その特徴をまとめるなら

①目が細い。少なくともぱっちり系ではない。つり上がっている場合もある。

②鼻がやや高めで、長め。ひらがなの「し」で書き表せそうな感じ。

この2つを満たせば典型的な「中村顔」である。どちらか1つでも、強く出ていれば十分「中村っぽさ」は出る。逆にどちらも当てはまらない中村さんを見ると「本当に中村さん?」さらには「お前それでも中村か?」とさえ思う。

試しにその辺のメモ用紙に、適当な輪郭を描き、ひらがなの「し」のような鼻を描き、線のような目を2つ書き添え、眉毛と口を適当にくっつけたのち、吹き出しで「中村です」と書いてみれば、誰もその言葉が嘘だとは思わないだろう。

「中村」は特に歌舞伎役者に多く、彼らも中村顔所有者である場合が多い。というより、僕の「中村顔」のイメージはそこから来ているんじゃないかと思う。

またどうでもいい話だった。

ウソは言わない

僕は普段、ウソはつかないことにしている。あまりに正直者なので、『走れ正直者』という歌のモデルは僕だと言われている。そんな僕も、子どもの頃は、意味もなくウソをついていたものだ。昔ついたウソをちょっと思い出した。

その話の前に、改めて、『走れ正直者』って自由でいい歌詞だなあと思う。これが書けるさくらももこさんが本当にうらやましい。

さて、昔『ストリートファイターⅡ』というゲームがすごく流行った。僕はまだ小学生だった。まあ、ご存じだろう。いろいろな国の、8人のキャラクターから一人を選んで、他のファイターたちと対決する格闘ゲームだ。

このキャラクターたちの国籍は、日本だったり、アメリカだったり、中国だったり、ロシアだったり、インドだったり、ブラジルだったりする(ちなみに僕の持ちキャラは、インドのダルシムだった)。

ストリートファイターⅡは大人気だったが、Ⅱということは、ストリートファイターⅠがあるはずだ。でも、だれもストリートファイターⅠについて知っている人がいなかった。そもそも、そんなものが本当にあるのかさえみんな知らなかった。

それで、僕のついたウソというのが、「ストリートファイターⅠ」というがあって、それはⅡと同様、8人のキャラから自分の好きなキャラを選ぶというものだったが、その8人は北海道、東北、関東、中部、近畿、中国、四国、九州の代表者で、国内の戦いだったというものだ。ちなみに、Ⅱに日本代表として登場するリュウとエドモンド本田はその8人に入っていたというのも付け加えた。

そのウソについて、周りがどんな反応を示したかは、あまり覚えていない。

実際の『ストリートファイター(Ⅰ)』について、今はネットで検索すれば簡単に知ることが出来るが、未だに僕としては、僕のついたウソの『ストリートファイター(Ⅰ)』の方が面白そうな気がする。

2012年総決算

前回の記事に関して、さらに詳しく説明する文を書いたが、いい加減にしろと思われそうなのでやめた。

そこで、今日は今年も残りわずかということで、2012年重大ニュース、ベスト5を発表していこう。

まず第5位 平沢勝栄さんが亡くなる夢をなぜか見る。

いきなり、縁起でもないが、夢だから仕方ない。何か事件に巻き込まれ平沢勝栄さんが亡くなったらしい。しかし、その自宅で、3~4歳のお孫さんと思われる男の子(実際にそんな孫がいるかはわからない、夢の話だ)が大声で、何かしゃべりだした。「若いものがちゃんと働けば、そのパワーが国を変えるんですよ」といった内容の勝栄節の演説だった(実際そんなことを言ったかは知らない、あくまで夢の話)。門前の小僧何とやらで、きっと、この子は何度もこの演説を聞いて、覚えてしまったんだろうなあ。それにしても、しゃべり方が勝栄さんそのものだ。勝栄さんが乗り移ったように演説を続ける天才少年。その姿を見ていたら、感動して涙があふれてきた。

ちなみに僕は政治に関心が薄く、平沢勝栄さんについてほとんど何も知らない。にもかかわらず、こんな物語を急に作り出してしまう脳のクリエイティビティには驚かされる。脳の無限の可能性には驚嘆を禁じえない。


第4位 ジュディ・オングの名前忘れる

あの『魅せられて』歌っていた人誰だっけ? 名前が出てこないよ。

「ウィンディズブロウインフロムジエイジャ~ン」って言いながら、クジャクみたいに両手を広げる感じの。タイトルが「みせられて」だから、たぶんあれはコートの下に何も着てないおじさんが、コートを広げるところを表現しているんだろうけど・・・。

ルビー・モレノじゃなくて・・・。ゴリライモじゃなくて・・・。

ってなった。結局思い出せたけど、年をとると、こうやってどんどん人の名前忘れていくんだろうなと思った。


第3位 『ARIA』面白かった

前に少し触れたマンガ、『ARIA』は人生変わりそうなくらいよかった。読み終わった後、世界がいつもより美しく感じられた。

最近は『ましろのおと』というマンガも読んだが、こちらもよかった。他には『ばらかもん』とか『3月のライオン』とか『あさひなぐ』『おおきく振りかぶって』などが僕の好きなマンガである。なんとなく傾向が見えるだろうか。


第2位 ロンドンオリンピックを見たりした

もうさんざん書いてきたからいいだろう。次行こう。


第1位 歯が痛くなった

そうこれ。詰め物が取れたのが2年ほど前だが、「歯医者嫌だ」「面倒くさい」などの、やむを得ない事情で放っておいたら、ついに痛み出したので、歯医者に通い始めた。治療には数カ月かかる見込み。

ロンドンオリンピック終わる

オリンピックも終わってしまった。まさか終わるとは思わなかった。テレビをつけてもやっていないなんて、寂しいものだ。

今回もたくさんのドラマがあって、面白かった。メダルの期待された選手が、惜しくも敗れたり、逆に、予想以上の快進撃でメダルを獲得したり。

特にフェンシングとか、奇跡を見たようだった。あと、卓球とか、バレーボール、バドミントンも素晴らしい快挙だった。

だが、僕にとって、今回のオリンピックでの最大の感動はやはり、体操の内村選手の個人総合金メダル。

僕も体操経験者なので、選手たちの動きを見ながら、その体の感覚を経験を頼りに、想像しながら見ていた。

その体操競技での金メダルは、感慨深さもひとしおである。

そして、体操部時代のことも少し思い出す。

鉄棒で手の豆を何度もつぶしたこと。

何度も頭をぶつけながら、やっとバク転を体得したこと。

あと、先輩たちのいじめの標的にされたこと。



――中学に入学後、体操部に入部することにした。男子体操部と女子体操部と新体操部があったが、レオタードを着たくなかったので、男子体操部を選んで入った。

しかし、気が弱く、運動がもともと苦手だった僕が、こいつはダメなやつだと烙印を押され、あたり散らしの対象となるまで、そう時間はかからなかった。

何かダメなところを見つけては、それをあげつらうというやり方で、彼らは、自分を正当化しつつ、気分良く、僕に対して、いじめを行った。

あるときは、跳び箱の上で倒立の姿勢になるということが、なかなかできない僕にしびれを切らし
「もっと強く蹴れって言ってるだろ! なんでできねえんだ」「ほら早くやれよ」と耳元でがなり散らした。

あるときは、僕に無理矢理、筋トレを散々やらせた(いわゆるしごきというやつ)あとで
「お~い。こいつ本当に力がないんだぜ。ひどいよ。おい、腕立て伏せ10回やってみろ」
疲れきっている僕は、腕立て伏せを10回やる力も残っていなかった。
「10回も出来ねえのかよ。普通10回くらいできるだろ。(他の一年に)。なあ、お前ちょっと腕立て10回やってみ(彼はしごきを受けていないので、当然、普通に10回できる)な、できるよな。こいつ10回もできないんだぜ。どう思う? ひでえだろ」

そうやって、無理にでもダメさを露呈させては攻撃してくるのである。彼らは、こいつがダメなのが悪いだから自分には怒鳴りつける権利があると信じていたのろう。いじめているという認識もなかったのかもしれない。こいつがやる気がなく、ダメだから教えている、説教している、そしてそれは当たり前のことなのだと思って、何の罪悪感もなくそうしていたのだろう。

一度、こいつは、ダメなやつだから、いじめて構わない。いや、そうするべきなのだという雰囲気ができあがると、嵩にかかってひどくなる。

「おめえは何やってんだよ、早くしろよ!」
「はっきりしゃべれ、この野郎」
「何、泣いてんだ! 泣きたいのはこっちだよ!」

僕は毎日のようにあからさまに、イライラや舌打ちをぶつけられ続けた。

とうとう、いままで傍観していた同級生からも、
「おら、立てよ、やる気あんのかよ」
と胸ぐらを掴まれ、座って休んでいるところを、無理矢理立たされたりした。彼もまた、この国の多くの人が目指す、みんなから愛される「空気の読めるいい子」である。ちなみに、そんな態度をいつもとられていて、やる気満々なわけはない。

何をしても、どう動いても、少し間違えば、または、気に入らなければ、彼らは文句をつけてどなり散らした。僕は、どうすればいいのかわからなくなり、ただ、怯えてビクビクしているしかなかった。すると、その態度にますます、彼らは腹を立て、図に乗って襲いかかってくる。

もう怖くて、嫌で仕方なくて、練習を休んだりしたが、そうすると、今度はそれをネタに罵られた。

逃げ場も、拠り所もなく、ただ、そんな日々を耐えるしかなかった。

先輩に「お前見てるとムカつくんだよね。何でなんだろう?」と真剣に言われたこともあった。そうか、僕は、ただそこにいるだけで、人を嫌な気持ちにする人間なんだなと、悟ったような、妙な気持ちになった。

自信を失い、あきらめだけが残った。

もうその頃には、感情を表に出すことがほとんど出来なくなっていた。「みんなと同じように笑う資格などお前にはないのだ」という目が常に向けられているように思えてならなかった。何を言われても、無表情で「はあ」「はい」「いや」「まあ」など、適当に返して、嵐が早く通り過ぎるのを祈った。心で泣きながら、感情を必死で殺した。そうして、自分を守った。

ちなみに、この傾向はその後、高校に入ってからより強くなる。元来、人の気ちを酌んだり、察したりするのは得意なはずだったが、なるべく、人の気持ちを考えないように、関心を持たないように、自分のことだけ考えるように、つまり、自分の殻に閉じこもるようになっていった。いっそ何も感じなくなってしまえばいい。心なんて無くなってしまえばいいとさえ思うようになる。その結果、相当に自分勝手な人間になったが、それはまた別の話。

さて、自分でも不思議なのは、それでも体操部を辞めなかったことだ。辞める勇気もエネルギーもなかったのだろう。3年間続けた。何があっても、ただ黙々と練習を続けた。

その結果、最終的には、それなりに上達し、戦力にもなり、周りからも信頼されるようになった。技が出来るようになると、褒めてもらえることもあったし、嫌なことばかりでもなかった。同級生たちとも和解し、彼らとなら仲良く話せるようにもなった。

これが、僕の中学時代。今となってはもう、笑い話である。だが、心の傷は相当深かったようで、未だに傷痕は消えずに残っているようだ。

それから、人間不信をひきずって人と接することが出来なくなっていた僕は、死にたくなるような、暗黒の高校時代に突入していくが、それもまた別の話。


オリンピックの話とだいぶそれたが、過去を持ちだして、僕のしたかったことは、自分の不幸を嘆くことではない。(今は別に、不幸だとも思っていない。)多少こじつけ感もあるが、この過去と、オリンピックを一つの例として考えて、今後の戒めというか、参考にしたい。

体操の団体で、内村選手の鞍馬の着地に関して、採点で一騒動あった。結果、順位が入れ替わって2位になったが、内村選手は「2位も4位も変わらない」と言った。

わかる気がした。結局、それは採点の問題で、演技自体が変わるわけじゃない。どれだけ悔しくても、やり直せるわけじゃない。ミスがあったことに変わりはないのだ。その自分の中での絶対的事実に対して、採点者がどう評価し、判断するかは大きな問題ではなかったのだろう。そんな彼が、個人総合で金を取れたことは、本当によかった。

彼に限らず、オリンピックに出る選手たちは、そういった全てを、結果として受け入れる。オリンピックのために、すごく練習して、思い通り結果が出せたり、すごい練習したのに、うまくいかなかったり、それも全て、彼らの人生なのだ。彼らは、自分の人生として、それを受け止めるのである。

同様に、今僕が生きているこれは、僕の人生なのだ。誰が、どう思おうと、何を言おうと、何が起きようと、どういう結果になろうと、それは動かない事実だ。だから僕も、彼らがそうするように、受け入れたい。

僕の今までの人生は、そんなに順風満帆とはいかなかった。だからといって、いつまでも被害者面で、それを嘆いて誰かの同情を勝ち取ったとて、本当に幸福にはなれないだろう。

不幸な人生になったのは、俺のせいじゃないんだから、誰か取り替えてくれといっても、誰にも取り替えてはもらえないのだ。結局どう生きて、どう思うかは、最終的に、自分の責任なのである。

ならば、本当に自分がするべきことは何なのか。

今後、自分のせいとは言えないような被害にあった時、どうするべきなのか。

そういうことを考えたオリンピックだった。


なでしこジャパン決勝

そんなわけで、なでしこジャパンの決勝、アメリカ戦も見てみた。

面白かった。いい試合だった。アメリカに敗れはしたが、本当にいい試合だった。

特に、大儀見、大野、川澄、澤、宮間ら攻撃陣のセンスの光るプレーから決定的なチャンスを作るシーンがたくさん見られて、本当に日本は魅力的なチームだなと感じた。

同時にアメリカもまた、強くていいチームだと思った。特にゴールキーパーの人の顔が醸し出す存在感とか。もし僕がアメリカ人だったら、アメリカを応援していただろう。

アメリカは、リードしていても、あからさまに卑怯な時間稼ぎもしてこなかったし(もちろん、日本が得点できるように急いでもくれなかったけど、それは当然として)、結構フェアプレーだったので好感が持てた。最高の相手と、最高のゲームが出来たという、充実の決勝戦だったように思う。

僕はなでしこジャパンを誤解していた

イギリスとの時差を恨みながら、オリンピックを観戦する日々である。みんなでオールをこいで、日本をもう少しイギリスに近づけてもいいんじゃないかと思う。

6日の深夜も、寝不足覚悟で、なでしこジャパンの準決勝、フランス戦を見ていた。実は、なでしこジャパンの試合をちゃんと見るのは今回が初めてだ。いままでは、ニュースで結果だけ知ったり、ゴールシーンのみ見た程度である。

結果は見事、フランスに対して、勝利を飾り、決勝に進出したわけだが、僕のなでしこジャパンに対するイメージは変わった。僕はなでしこジャパンを誤解していた。

ワールドカップ優勝。そしてオリンピックも、ここまで順調に勝ちあがってきた。そのことから、なでしこジャパンは、世界王者級、世界屈指の強さを誇る強豪というイメージを持っていた。

だが、フランス戦で、僕の見たなでしこは、思っていたような、相手を圧倒するような強さではなかった。

この試合、押していたのはフランスで、特に後半は激しくフランスに攻め込まれ、日本は防戦一方、何度もピンチを迎える苦しい展開だった。最終的に、シュートの数、日本4に対して、フランス27。この数字を見ても、苦しい戦いだったことが見て取れる。

それでも日本は2ー1で勝利している。これは何なんだろう。

調べてみると、その前のブラジル戦も、ワールドカップのドイツ戦やアメリカ戦も、やはり、相当攻め込まれる苦しい展開だったらしいのである。実力が上といえる相手に、不利な試合展開の末、勝利していたのである。格闘ゲームのラスボスを倒すみたいなギリギリの勝利を、何度も何度も重ねていたのだ。その難しさは、実力の劣る相手に普通に勝つことの比ではないはずだ。

これらは、運が良くて勝ったのだろうか? もちろん勝負に運はつきもの。だが、フランス戦を見る限り、それだけには見えなかった。

4本のシュートのうち、2本は決まり、残りの2本も確実に相手ゴールを脅かすものだったところからも、少ないチャンスでしっかり決めていることがわかる。その勝負強さとゴール感覚。守るべきときには組織的にしっかり守る守備力。相手をしっかり研究して、各選手がやるべきことをやるという、準備と戦略。そしてなんといっても、勝利への執念と精神力。これらがそろっているからこその勝利と言えるだろう。

なでしこジャパンは確かに強かった。でも、その強さは、単純なサッカーのレベルの高さというより、ちょっとでも気を抜いたら、やられてしまうような試合の中で、強い執念でゴールを死守し、不利な試合をも、ものにしてしまう強さ、もっと大袈裟に言えば、不可能を可能にする強さだった。

彼女たちは、僕の想像以上にすごいことをやっていた。

なんと素晴らしいことだろう。たった1試合見ただけで、ここまでわかったようなことを言える僕って。

次の決勝、アメリカ戦で、この強さが本物であるところを見せてほしい。

歩行者あるある

道を歩いてて、そのへんに停めてある車の横を通り過ぎるとき、車の窓に自分の姿が映る。

そのとき、「髪形、変になってないかな」とか「今日もいい男だなあ」とか確認したりするよね。

でも、その車に人が乗っていたとき、すごい驚くよね。あと、すごい気まずい。


ドラスティック

何度聞いても覚えられない言葉ってある。

僕にとっては「ドラスティック」がそれである。

どこかで「ドラスティック」と聞くたびに、「それどういう意味だっけ?」となって、その都度調べるのだが、次に聞く頃にはもう忘れている。「ドラマチック」と似ているなあと思うところも毎回同じである。

この際なので、僕の中では「ドラスティック」は、ドラえもんの映画を見に行くと、映画館でもらえるやつだと思うことにしようと思っている。なんか棒の先にドラえもんの人形みたいなのがくっついているやつ。

コマーシャルでも「ドラスティックもらえるよ♪」って言ってたような気がする。

「ムヒ」の名前の由来は「無比」

かゆいなーと思って、あせもにムヒを塗ったら、すげーのが来た。ビッグウェーブが来た。

笑えるくらい痛くて気持ちよくて、スーっとして冷たくて、ヒリヒリして熱い。おかげでかゆさは感じない。

そして収まった頃には、もう痛くもかゆくもなくなった。

なんかちょっと寂しくなった。またあせもできないかな。


ロンドンオリンピック開催

暑さとオリンピックのせいで、ここ数日、寝不足であるが、そんなに体調は悪くない。ちゃんと立って歩くことも出来ている。

体重もどんどん減っている。この機に、ライトフライ級まで階級を下げようかと思うほどだ。このままどんどん減っていくと、あと20年ちょっとで0になるペースである。でも、この季節、体重が落ちるのは毎年のことなので心配いらない。冬になると、また増えるだろう。

それにしても、オリンピック、見ちゃうね。オリンピックを見たところで、僕に何が出来るわけでもないし、見ないで勉強でもしてた方が、僕にとってプラスになりそうだけど、真剣に闘っている選手たちの姿には、どうしても引き込まれてしまうものがある。

体操は特に力が入る。体操選手たちの筋肉を見ていると、単純だが、筋トレをしたくなってしまう。肌の白さなら内村選手にも負けていないし、何とかなるのではないかと思ってしまう。あれくらい筋肉ついてたら、だいぶ世界が変わるだろうな。

あと、柔道。選手の動きを見ていると、みんな結構その場でぴょんぴょん跳んでるなと思った。あれはやっぱり大事なのかな。今大会、何かと物議をかもしている「ジュリー」の制度について、沢田研二とかけたギャグを言う芸人が出てきそうだが、誰でも思いつくやつなので、言わないほうが正解だろうな。

そんな中、チャンネル変えてみたら、『ほこ×たて』やってた。オリンピック開催中の『ほこ×たて』の対決はすごく、どうでもよく見えるね。

鶴岡雅義と東京ロマンチカの

『小樽のひとよ』という歌

 逢いたい気持ちが ままならぬ

で始まる、あの歌だけど。歌い進めていくと

 粉雪舞い散る 小樽の駅に
 正義のパンチをぶちかませ

と、途中からタイガーマスクのテーマに変わっちゃうんだよね。小樽の駅に恨みがあるのかな。

『あしたのジョー』の主題歌も

 サンド~ バッグのジャングルに

と、また途中でタイガーマスクになっちゃう(「サンド」まではジョー、「バッグ」からはタイガーマスクのメロディーで)。

もう!タイガーマスクの汎用性!

もしも

たとえば、飛行機とか、船の事故があって、海を漂流したのち、何とか無人島にたどり着いて、一命を取りとめたとしよう。

これから無人島でのサバイバルが待っているのかなあ? なんて状態になったとしよう。

そうしたら、少しして、同じ事故に遭った人が、もう一人あとから、島に流れ着いて来た。

さて、その人が、どんな人だったら嬉しいだろうか?

別に心理テストじゃないよ。

僕としては、行動的で主導権を取ろうとする人より、思慮深くて、相談しやすい人がいいかな。

逆に、流れ着いて来たのが、どんな人だったら嫌かといえば、一番嫌なのは、間違いなくハンニバル・レクター博士である。

足を運ぶ

「こんなところまで足を運んでくださってありがとうございます」

なんてよく言うけど、どちらかと言えば、足の方が体を運んでいるような気がするよね。

スムーズ

「スムーズに会社を辞めることができた」というときなどによく使う「スムーズ」。

この「スムーズ」のことを、「スムース」と言ったり、書いたりする人が多い。

辞書で「スムース」を引くと「スムーズの訛り」と出ていた。つまり間違いではないにせよ、「スムーズ」の方が、より日本語としてあるべき姿なのである。

英語で書くと「Smooth」。「th」だから「ス」と読みたい気持ちは分かるが、この場合、英語本来の発音も「スムーズ」に近いのだという。

それを知ってから、本を読んでいるとき「スムース」と書いてあるのを見る度に、なんだか「気取ってんじゃねーよ」と腹立たしい気持ちになる。

それに、スムースというと、どうしても酢をかけたムースを連想してしまうではないか。

だから、スムースという言い方をする人に対しては、酢をかけたムースを食べさせて「あなたの言っているのはこれですよ、これがスムースですよ、スムーズには食べられないでしょ?」と教えてあげた方がいいのではないかと思う。

昨日のアリバイ

こちらは暑いものだという心構えをしているのに、涼しいので逆に調子が悪くなる。

速いストレートを何球か見せられた後、急にチェンジアップとか来るとタイミング外されて全く打てないのと同じだな。

さて、昨夜、お腹が痒いと思って見てみたら、虫に刺されていた。蚊かと思ったが、違う虫のようだ。ダニか何かだろう。ムヒを塗っておく。

そのあと風呂に入ることにする。せっかくムヒを塗ったのに、すぐ風呂という計画性のなさには、我ながらがっかりである。

風呂に入る前、コンタクトレンズを外していないことに気づいて、外すことに。

そうしたらなぜか、目に激痛が。

そうだ、さっきムヒを塗った手でコンタクトを外そうとしていた。軽く手は洗ったが、十分ではなかったらしい。

その場で涙を流しながら悶える。

気を取り直して、もう一度しっかり手を洗い、先にもう片方のコンタクトを外す。

余談だが、コンタクトは入れるときも外す時も左からと決めている。左右とも度数は同じなので、ケースに入れるとき、気にしなくていいのが便利だ。

そして、もう一度、さっき痛くなった左目のコンタクトを外しにかかる。

なかなか外れない。おかしいなと思ったら、案の定、最初の段階で、コンタクトは外れて、下に落っこちていた。

気付かず、眼球を取り外そうとしていた。また涙が出てきた。

ブログに日記を書くという、新しい発想

日記を書く習慣がないのだが、適度に自分の行動を記録しておきたくなった。記録しておかないと、すぐ忘れてしまうので、アリバイを聞かれたときとかに、疑われてしまう。

ブログに日記を書くのは、秘密にしたいこともあるし、本性がバレそうだし、いろいろ都合が悪いのだが、書ける範囲で書いていこう。

天野こずえ先生のマンガ『ARIA』を全巻、大人買いした。

そんなことを聞かれることはまずないのだが、そして実際に聞かれたら無視するかもしれないが、どんな雰囲気の世界が好きかと聞かれたときに、真っ先にこのマンガを挙げたくなるような美しい世界観。僕が創作家として作り出したい世界の目標の一つ。僕には、こういう想像力は一生手に入らないのかもしれないと不安にもなる程の作品だ。男のくせに、これが好きというあたりが、僕の孤独を裏付けている気がする。つまり、大抵の男とは趣味が合わず、女はそれ以上に理解しがたいのだ。

なぜいままで持っていなかったのかといえば、好きではない部分もあるから(なんか恥ずかしくなってくるところとか、盛り上がりがなさすぎるところとか)なのだけど、ちゃんと全部読んだことがなかったので、読んでみようかなと、情熱がわき出して、レンタル屋さんのコミックレンタルコーナーに行くも、置いてなくてがっかり事件が発生。しばらくは途方に暮れていたが、あきらめきれず、中古のコミックセットを注文。

これが昨日のこと。これでアリバイ成立だな。僕はやってません。

呼吸

人は鼻か口から息をする。

逆にいえば、口と鼻をふさがれてしまうと、息が出来なくなってしまうということだ。

口と鼻はわりと近い位置にある。ふさごうと思えば、指3本でできるかもしれない配置だ。

手で口と鼻をふさがれるという方法で殺された人もいるかもしれない。

もし息が出来なくなったら、すごく苦しいだろう。そして、とても、もどかしいだろう。こんな簡単にふさげる、さほど大きくもない穴をふさがれただけで、こんなにも苦しいなんてと。もう一個だけでも、どこかに抜け穴があればなあと思うだろう。

そういう意味では、息をするのが口と鼻だけというのは、なんとなく心もとない。

緊急時だけでも、耳で息が出来る仕組みになってればいいのに。空気が、長時間、鼻や口から出られないとき、非常事態発生ということになって、サイレンが鳴る。すると、緑のマークの非常口がおごそかに開き、空気たちは、「おい、みんな、あっちだ」って感じで、耳の方に行けるようになるのだ。そのまま空気たちは、鼓膜をパカッと開けて出入りする。

耳は鼓膜が戻るまで聞こえなくなるし、ばい菌が入って耳の病気にかかりやすくもなる。でも、命は助かる。これで、万が一、口と鼻が同時にふさがっても安心だ。

そうすると、わざと口と鼻をふさいで、耳ですごくうまく笛を吹く人とかが現れたりするのかな。

くだもの

くだものってすごくね?

あんなお手軽な食べ物が普通に木になってるんだよ。

昨今、肉じゃがとか、たまごやきとか、調理済みの食べ物がパックに入って売られていて、すぐ食べられるようになっていて、便利になったものだと思うが、作ってる方は、傷まないような工夫や努力も積み重ね、工場で大掛かりな機械を使ったりして、相当な数の工程をふんでいるはずだ。

すぐ簡単に食べられるって、人間がこれほど努力してやっていることなのに、くだものはもいで食べるだけ。

ほとんど、調理不要で、そのまま食べられるんだよ。りんごとかならそのままいけるし、バナナや、みかんなら皮むくくらいで食べられる。甘くておいしくて、栄養も豊富。

なんて都合がいいんだろう。至れり尽くせりだ。

か?

『8 1/2』は「ハッカニブンノイチ」って読むけどさ。

「カ」ってなんだよ。「か」って。いや、昔の読み方なのは知ってるけど。うちの親はそう読む世代だし。

「ハチとニブンノイチ」と読むならわかる。「と」はわかる。「トムとジェリー」の「と」、「罪と罰」の「と」、「倫理学における形式主義と実質的価値倫理学」の「と」と同じ「と」だ。

でも「か」ってなんだ? 「のるかそるか」の「か」ではないだろ。 「加」? 「過」? 「科」? 「家」? 

ひねくれ者

「命は大切」と、何千何万回言われるより、一度でも「あなたが大切」と誰かに言われれば、それだけで生きていける、みたいなコマーシャルが昔あったと思う。

僕はとてもひねくれているので、そんなのわからないじゃんと言いたくなってしまう。

何千何万ということなので、仮に1万回として、何かの集会で、強制的に1万回「命は大切」と、聞かされ続けることになったとしよう。もちろんそれは、大勢に向けて発せられた言葉で、ひょっとしたら、たいして心もこもっていないものだとしよう。だとしても、1万回は何日かかるかわからないほどの相当な数である。聞いているうちに、マインドコントロール的な効果で、1回だけ「あなたが大切」と言われただけの人より、命の重さ、大切さを強く認識したり、感じたりして、自分の命も、誰かの命も大切にしようと思うようになっても不思議ではない。「自分はツイている」と言い聞かせていると、脳はその理由を勝手に探す。だから普段から、自分に対して、よい言葉を投げかけることが、大事だとよく言われている。1万回の「命は大切」でも同じようなことがあるのではないか。

実際、試したわけではないし、そんな集会には参加したくないけど、可能性は十分だと思う。

「そんな屁理屈を。あのコマーシャルのコピーだって、実際に1万回言われる場合と比べてどうこうってわけじゃないだろ、意図をちゃんと汲み取れよ」と思うかもしれない。

もちろん分かっているけど、僕としては、どうも「これが正しいんだぜ」と言わんばかりに道徳的な事柄を説かれると、必ずしもそうではないことを示したくなる。簡単に「そうですよねえ、いい言葉ですねえ」と納得するのは、なんだか悔しい。断定的に言われるほどその気持ちは強くなる。正しさなんて、絶対的じゃないのだから、すぐに決めつけてかかる人とか、自分こそは正しいんだと思い込んで生きている人への警戒心が強いのだ。自分で考えてから納得したい。

そのためには、方法的懐疑ということで、いったんその言葉を疑う。

その結果、今回のように、的外れにも見える反論も出てくるのだが。

恐怖映画『君に届け』の感想

前回、恐怖映画『君に届け』の感想を書くと言ってしまったので、気は進まないが書いてみよう。他にもいろいろ映画を見ているので、この作品にだけ触れるのも変なのだが、まあ、乗りかかった船ということで。

やはり、恐怖映画であった。

いきなり、シャイな男の僕には耐えがたい、桜の花びらを使った、目を覆いたくなるような惨劇から始まった。

さらにその後も、なぜか自分のことよりも主人公・爽子のことばかり考えて話題にしたがるクラスメートたち、体育館で真田と話している爽子の手を引っ張って、むりやり連れ出す風早の奇行、など、現実にはあり得ない異常空間。

本来もっと複雑なはずの人の心と行動のつながりを、わかりやすく描いているととらえれば、この異常空間も説明がつくかもしれない。

この世界に浸ってストレートに楽しむのは、大方、やはり少女マンガの読者層なのだろう。

それを外から見ながら、マンガだなあ、そんなことあるわけないじゃんなどとツッコみながらも、それも含めて面白がりながら見ている人も多いのではないかと思う。僕はと言えば、それすら外から見ている感じだろうか。

それでも、作者の伝えんとすることや、これがストレートに好きだと言う人の気持ちはよくわかるし、その気持ち自体、人間らしくて愛おしい。2~3か所くらい泣いたし。いい勉強になった。

恐怖映画『君に届け』

さて、夜も更けてきたところで、恐怖映画でも見ようかな。

今年は映画を100本見ることにしていて、次に見るのが62本目になる。

そして次に見ようとしているのが、あの映画。

・・・恐怖・・・・・・『君に届け』(キャ~)

フォントをなんかどろんとした感じのやつにしたいくらいである。

椎名軽穂原作、多部未華子、三浦春馬主演。2010年公開。

先日、ツタヤで一度、手に取ったら、胸がキュンとなるとか書いてあるではないか。あまりの恐さに、棚に戻した。

だが、逃げてばかりもいられない。今回、勇気を出して借りてきた。

胸がキュンとしちゃうのか~怖いよ~。

僕も初老の男である。しかも、恋愛など縁のない青春を送ってきている。僕に向けて作られた映画ではないのは間違いない。

キャッチコピー「簡単になんて伝えられない。本当に、本当に大切な気持ちだから。」

見事に恐怖をあおってくるコピーである。

たとえば、日記にそんなことを書いている最中にノートを取り上げられ、みんなの前で読みあげられたら、翌日から確実に登校拒否である。

もし、そんなセリフがどんどん出てくる映画だったら、布団の上で顔を覆いながら、ジタバタ身悶えてしまうに違いない。

そんなものを見たら、一体どんなことになってしまうんだろう。果たして耐えられるだろうか。

どうか、見られる映画であってほしい。

今日は心の準備が出来ないので、見るのはやめよう。見たあとで、気が向いたら、感想でも書きます。

送りたい人生

じゃあ、どんな人生を送りたいのか。

もし、どんな人生でも送れるとしたら、誰のような人生を送りたいか。その質問に対して、男なら多くが坂本竜馬などを答えそうに思える。確かに坂本竜馬は魅力的であるが、僕は自分がそんな器ではないことや、そんなスリリングな生き方を望んでいないことををよく知っている。暗殺されるのもごめんだ。

ならば、どう生きたいのか。端的には、自分らしさ、独特さとかを誇りに持ちながら生きられるのが、僕の理想だ。

憧れるのは、やはり芸術家だ。僧侶とか、学者などにも憧れる。たとえ貧乏でも、好きなことが出来れば気にならない。

むしろ、スナフキンとか、ディオゲネスように、物を持たない人に憧れるくらいだ。とはいえ、満たされた暮らしに慣れてしまった今の僕には、そこまで捨て去ることはできないだろう。

僕の答えは、スヌーピーの作者、シュルツさんである。自分の産んだキャラクターが世界中で愛されているなんて、どれだけ素晴らしいことだろう。マンガ、『ピーナッツ』の内容も、人の心を見つめてきたシュルツさんならではの機微に富んだ、哲学にあふれたものになっていて、すばらしい。

だからといって、マネして同じようなことをしようとしても、うまくはいかないだろう。

結局、自分の表現は自分で見つけるしかない。

そのためには、享楽に逃げずに、自分と向かい合って、いい気分の時も、辛い時も、心を見つめること。その中から表現すべき何かを見つけだすこと。それが僕の使命だと思う。

それをしなければ生きたことにならないように思える。

そのためにも、今はとにかく、もっともっと勉強がしたい。まだまだ、勉強が足りない。

僕の尊敬するいろいろな人たちの、いろいろな作品や考えに触れたい。



そんなことを思って生きてます。

個人的なことばかりですみません。こんなことばかり考えてしまうもので。

寝る前に、いろいろ考えるのだけど、「もし、眠ったあと、そのまま目を覚まさなかったら」とか考えることがあって、そうなったとき、誰も、僕がどんな気持ちで生きているのか知らないまま死ぬのは残念だなあと思ったので、書いてみました。

送りたくない人生

どんな人生を送りたいのか、何をやりたいのか。

それは簡単に答の出る問題ではない。

何がやりたいのかを探しあてるのは大変なことである。

ただ、何をやりたくないかなら、少しはわかる。

以前、母が電話で、どっかの誰か(親戚か、友人の子供か、近所の人かだと思うが、僕には興味のない人物)が、公務員になって、野球チームに入って楽しく過ごしていると、報告してきた。

そして、おまえも同じように安定した職について、野球でもやって、楽しく暮らしたらどうかと言ってきた。

そのとき僕は、公務員になって、休日に野球をやるような人生だけは絶対にイヤだと強く思った。想像しただけで、そんな生き方は人生を棒に振っているようなものだと思った。

ここまではっきりイヤだと思ったのは、人生を考える上で貴重なヒントだった。

ほかにも僕は、「公務員になって野球」ほどではないが、サラリーマンになって、同僚と飲みに行くような人生はイヤだと思っている。

僕が送りたくない人生ランキングを作るとしたら、
1位 公務員になって、休日は野球をする人生
2位 サラリーマンになって、同僚と飲みに行く人生
3位 麻雀や、ギャンブルや、ネットゲームなどに浸った、自堕落な人生

という感じになると思う。

ほかにも、株や円相場など、毎日変動する数字を追いかけ回すような人生も、避けたい人生だ。

ここで重要なのは、3位のような人生も、当然イヤだが、1位2位より3位の方がだいぶましだと感じているということだ。

そのくらい、1位2位になることは避けたいと思っている。

それがなぜなのか、理由を説明するのは野暮ったいのでやめておこう。わかる人には説明しなくてもわかるし、わからない人には説明しても、「ああ、そうなんだ。まあ、そんなもんか」ってなるだけだろうし。

でも、まあ、そこまで言うなら、試しに少しだけ説明するけど、1位2位に対して感じる、どうしようもない可能性のなさがイヤだ。「まあ、それなりに楽しいし、そんな悪い人生じゃないじゃないか」といいながら過ごして、やがて年老いて「幸せな人生だっと」とか綺麗にまとめて死んでしまいそうな感じ。それは僕にとって生きたことにはならないのだ。

「ああ、そうなんだ。まあ、そんなもんか」

ほら。

炊飯器

先日、炊飯器を買った。

炊飯器というのは、お米を炊く以外、何の役にも立たない、あの道具のことだ。

いままで、持っていなかったわけではない。

それまで、家では買ってきたパンか、狩ってきたアザラシが中心だったので、ご飯を食べることが少なく、炊飯器を使う機会がなかった。だから、燃えないゴミの日に捨ててしまったのだ。

それから少しして、お金のことを真剣に考える機会があった。

今まで毎月1万円を貯金していたが、それを倍の2万円に増やすことにした。収入から考えると、エンゲル的にかなり厳しいが。無駄をなくせば、1万円分くらい浮いてくるだろうと踏んだのだ。

そうすると、かなり食費も削る必要が出てくる。そうなると、パンを買うより、ご飯を炊いて、食べない分は冷凍保存の形を取った方が、経済的だし、アザラシを狩るより楽だと気付く。

そこで、一度は手放した炊飯器が、また必要になり、購入に踏み切った次第である。

さて、さっそく、ご飯を炊いてみることに。

無洗米を窯に入れる。あとは、水を入れて、スイッチを押せばいい。

いままで水を入れるときは、面倒だから、計量カップで、窯を本体にセットしたまま注ぎ込んでいたが、今回は、窯の目盛りを使って、直接蛇口から水を入れることにして、内窯を取り外す。

するとびっくり。内窯の下に1枚薄い紙が敷いてある。新品ならではの、保護用の、使用前に外してください的なやつだ。

あぶね。もし内窯を外さずに計量カップで水を入れてスイッチを入れていたら、紙の存在に気づかず、この紙が燃えて、使用1回目にして、新品の炊飯器が煙を吐いて爆発しているところだった。

いや、案外きれいに燃え尽きて大丈夫なのかもしれないけど、いずれにせよ気付いてよかった。

おかげで、今は、ご飯ライフが楽しめている。

幸せ

誰だったか忘れたが、幸せについて

「幸せとは、このままこの時間が永遠に続けばいいのに、と思うような状態のことである」

と定義した人がいたと思う。

なかなか、見事なものだ。

僕にとって、この時間がずっと続けばいいのにと思う時間は、夜、寝ようと布団に入った時である。

寝入るまでの時間に、とりとめもないことを考えるのが好きなのだ。

僕の城と言うべき架空の建物を歩いたり、脳内秘書や軍師と会話をしたりする。これがなんとも楽しい時間だ。

しかし、いつも、途中で寝てしまうので、何の結論も出ないし、結末も訪れない。

もっと長く時間を取れば、何か新しい展開があるかもしれない。脳内軍師に相談を持ちかければ、思いもよらない解決方法を教えてくれるかもしれない。

試しに、昨日夜7時半に布団に入ってみることにした。

すぐ寝つけた。

その後、何度か目が覚めたが、結局、朝10時半に起きた。

まあ、たくさん寝られて、睡眠欲がすごく満たされた気持ちにはなった。

新たな目標

この季節たくさんのコバエが発生する。

ゴミ箱にバナナの皮を放りこんでおいただけで、そこからたくさんコバエが生まれる。

もう気持ち悪い。

これは早いところ、気にしないようにしなければと、さっそくアマゾンで「コバエがたくさんいてもあまり気にしない力を鍛える方法」みたいな本を探したけど、見つからなかった。

しかし、ここは発想を変えて、コバエをなるべく発生させないように努力することにする。まさに逆転の発想だ。

生ごみなどはゴミ袋に入れて、袋をしっかり縛って密封して、早めに処分を心がける。流しの中も毎日掃除をする。

今年の夏はコバエを発生させないことが目標だ。

なんでもいいから書いてみるか

時間が経つほど、僕がバスが嫌いという印象が強くなりそうな気がして仕方ないのだけど、別にそれほどじゃない。

というわけで、前回の更新から、少し(たぶん2~3週間くらい)時間があいてしまったようだ。いつものうっかりである。心配しないでほしい。もしくはすごく心配してほしい。

その間、主に何をしていたかと言えば、竹下佳江のことを考えていた。

竹下佳江さんはバレーボールの選手である。日本代表チームでセッターを務める、あのちっちゃい人だ。別に僕はバレーボールファンでもなければ、竹下ファンでもない。

でも、たまたま日本の試合をテレビで見たとき、他の国ではなく、日本を応援したくなる一番の理由は、僕が日本人であること以上に、この人の存在なのではないかと思ったのだ。

竹下選手は明らかに小さい。周りの選手たちが2~3メートルあるのが普通という中、竹下選手は159センチ。そんな人が、世界で最も優秀なセッターと呼ばれ、日本チームにいることが、妙に誇らしく思える。

他のスポーツもそうだけど、日本人選手は体格的に小さい場合が多く、そんな中、ひたむきな努力によって技術を磨き、恵まれた体を持つ外国の選手と勝負している印象が強い。

それ自体がすごく感動的なことだし、日本のいいところ、誇りに思えるところだ。

いまさらながら、竹下選手を見たとき、まさにその象徴のように思えた。僕にとって、天皇も日本の象徴だが、竹下も日本の象徴である。

今まで、いるのが当たり前だと思っていたけど、竹下選手とて、いつまでも現役と言うわけにはいかないと思うと、急にありがたく思えてきた。

バレーボールは番組の作りが、ジャニーズの誰かが応援団だったり、選手にキャッチコピーやニックネームをつけて、アイドルみたいな扱いにしたり、なんかうわついてて好きじゃないから、見ないことが多かったけど、オリンピックはテレビで応援してみようかと思った。

飲んでない

お酒を飲む習慣がほとんどない。今年に入ってからは、まだ飲んでいない。

でも、そういえば、もっと飲んでいないものがあった。

薬である。

何年も薬を飲んでいない。忘れてるだけかもしれないけど。しばらく飲んでないのは確かだ。

歯医者からもらった痛み止めも結局飲まずに済んだし、風邪をひいたときも薬を飲まずに治した。胃薬とかも飲んでないし。サプリメントは食品だし。

最後の飲んだのはいつなのか思い出せない。5年くらい前にウィルス性腸炎で病院に行った時もらったのが最後かな。その時以来病院にも行ってない。

こんなに薬飲んでない人珍しいんじゃないかな。

そんなイメージなかったけど、俺、意外と健康的だな。

今日も食欲はあまり無いけどね。

バス

あまり進んでしたくないことに、バスに乗ることが挙げられる。バスの方が早いとわかっていても、バスという選択肢は外し、歩くことがほとんどだ。

高校生の時、塾に通うため、週に数回、バスを利用していた。高校生の時の僕は、強さがカナブンより少し弱いくらいだったので、バスに乗るにも、とても気を遣った。

駅がそのバスの終点だった。塾は駅のひとつ前のバス停で降りるのが一番近かったが、そのバス停を利用する人はいつもあまりいないので、僕一人のために、バスを停めるのが申し訳なくて、他に降りる人がいなければ、駅まで行くことにしていた(駅まで行っても料金は同じだから、少しお得である)。そして、いつもそこからバス停ひとつ分戻った先の塾まで歩いていた。

当時バスには回数券的なカードがあった。プリペイドカードみたいなやつ。今もあるとは思うけど。それを買うと、一回分くらい多く乗れるし、支払いが、機械を通すだけで、簡単になる。そんな、夢のように便利なカードで、車内で運転手さんから買うことが出来る。

その日、そのカードの残高が無くなったので、新しいものを買おうと考えていた。

問題は、どのタイミングで買えばいいのかという点だ。

基本的には、赤信号で、停車しているときがチャンスなのだが、信号機もいつ青に変わるかわからない。青信号に変わっても売り買いのやり取りをしていたら迷惑になってしまう。だから、ちょうど信号が赤に変わったタイミングで停まった時などがいいのだが、中には短い信号もあるので、その時間内に支払いを終えられるかということを考えると、自信が持てなかった。

「あ、今、赤信号で停まったぞ」と思っても、運転手さんのそばまで行った途端に、信号が青に変わってしまうこともあるかもしれない。そうなると買えないし、なによりきまりが悪い。笑い物になってしまう。それを考えると怖くて、なかなか飛び出せなかった。

僕が乗ったバス停から、終点までかなりの距離があるから、信号で停まる機会は何度かある。でもその時は、なかなか、これは長い時間停まっていそうだと思えるタイミングは見つからなかった。

「あ、今停まったぞ、今なら行けるかもしれない。でも、この信号はどのくらい赤のままなのだろう?通りの大きさから考えて、あと2、30秒で青に変わってしまうかもしれない。あと2、30秒で、お金を払ってカードをちゃんと受け取れるだろうか?」

「あ、だめだ、そんなことを考えている間に時間が経っちゃったな。もう無理だ。今行ってもすぐ青になってしまうだろう、次の機会を待とう」

「また停まったな、この信号はどうだろう?う~ん。短そうな気がする。やめておこう。・・・・・・・・・・・・。まだ、青にならないな。今、行けたかもしれないな。でも、今行っても、もう遅いしな」

そんなことを何度も繰り返していた。もう、そのことばかりずっと気になっていて、座席に座っている間も、ずっと気持ちが張り詰めていた。ただでさえ、人に話しかけることには極端に緊張するし、強い覚悟が必要な僕だ。その時の緊張はがいかほどだったか、お察しいただきたい。

どんどん終点の駅が近づいていた。そこまで、約20分。もう、すっかり疲れてしまっていた。

この際、終点まで行って、降りるときにちょっと時間をもらって、そこで買ったらどうだろうと考えた。そこが、終点だから、僕がカードを買っていても、次のバス停に遅れてしまうことはないわけだし。

これ以上、赤信号のタイミングを待つのも、精神的に無理だったので、そうすることにした。

そして、バスは終点に到着。次々と降りていく乗客たち。

僕も続いて行き、支払いの順番が来たとき、5000円札を差し出しながら、「5000円の回数券をください」と運転手に申し出た。

すると、運転手はいらついた口調で

「そういうのはね。信号で停まったときとか、そういうときにしてくださいね」

と言葉を投げつけ、「はい」とぶっきらぼうにカードを手渡してきた。

血の気が引いていくのがわかった。

「はい、すいません」と、答えるのがやっとだった。

バスを降りてからも、しばらくは歩くことが出来なかった。

いったん駅で少し休んでから、こみ上げてくる涙を袖で拭いながら、塾まで歩いた。

それ以来、バスにはあまり乗りたくなくなった。いや、始めから、乗りたかったわけでもない。子どもの頃から、乗り物に興味はなかったし(乗り物酔いしやすい体質だったし)、一番好きな移動手段は徒歩である。

寂しい

一人でいることが当たり前になって久しく、僕に寂しいという感情はなくなったものだと思っていたが、先日それを思い出す夢を見た。

現実では決してあり得ない話だが、夢の中では、僕は結婚していて、新婚夫婦だった。

妻となった人は、とても明るく社交的な人だった。当然友達も多い。人気もある。しかも女性である。そんな人が僕を選んでくれた。

とても幸せな気持ちだった。

でも、彼女は、たくさん友達もいて、活動的だから、すぐ友達とどこかに遊びに出かけてしまう。

彼女にしてみれば、友達と遊ぶ方が、きっと、僕といるより楽しいんだろう……。

僕はまた一人になってしまう。

寂しい……。

どうやら、僕の中で、寂しいという感情は、完全には死んでいなかったらしい。死んでくれて楽になったと思っていたのに。まだ生きていたようだ。

はじめから一人なら、あまり感じずにすむのだけど……。

さて、夢の続きだが、彼女が帰ってくると、喜びでもって、そんな気持ちはすぐ消えてしまう。

でも、テーブルを挟んで食事をするとき、ちょっと聞いてみようと思った。「ねえ、なんで俺と結婚したの?」

その答えを聞き出すことは、夢の時間が短すぎて、できなかった。

遠慮

遠慮がちな子どもだった。

子どもだから、スーパーに行くと、当然お菓子売り場とか、見たいんだけど、先客がいると、つまり他の子どもがそこにいると、その子がいなくなるまで、そこに入っていけない。どこか、別の乾電池売場とかで、「乾電池だなあ」とか思いながら時間を潰して、お菓子売り場に戻る。まだその子がいたりすると、「早くいなくならないかなあ」と思いながら、また乾電池売場で乾電池を見たりする。

ようやく、お菓子売り場に誰もいなくなると、そこに行って、おもちゃ付きのお菓子を中心に、楽しくいろいろ見る。

でも、僕の見ているところに、他の子どもがやってくると、なんだかそこにいてはいけない気がして、いったん乾電池売場等に避難する。

そんな感じの子どもだった。その後も、大人になるまで、大人になっても、まさにこんな生き方をしてきた。どうなんだろう。こんな生き方。

ToDoやタスクに代わる言葉

スケジュール管理の方法をしっかり決めようということになった。

現在、大まかな方法は決まったので、あとは実際、生活しながら微調整、という段階である。

結局、シンプルにGoogleカレンダーを使おうというところに落ち着いた。MSOutlookも使いやすいのだけど、アンドロイドとの同期などの点からみて、Googleカレンダーが最も汎用性が高くて、間違いないだろうと。

あと、GoogleのToDoリストも割と使いやすいので、カレンダーとToDoリストの併用で、全て、スケジュールは管理できるだろう。

ところで、「ToDo」とか、「タスク」という言葉が、昔からどうも嫌いである。「ToDo」は「やること」という意味だが、発音したときの感じがなんか嫌だ。全然かっこよくない。「タスク」も「たすく」で、助けるという意味の日本語、あるいはダースローマシュ匡みたいな感じがして、なんだか気持ち悪い。そもそも僕は英語が苦手なので、これらの、カタカナ語として一般的に使われていない英語を、無理矢理日本語として使ってる感じが出てる言葉は好きになれない。

何かもっと、いい言い方はないかとずっと思っていたが、昨日、ふと、これにしようというのが思い浮かんだ。

「タスク、ToDoを処理する」ことを「手を打つ」「手を指す」「手を講じる」と言うことにするのだ。

僕は将棋が好きなので、将棋で一手指すようなイメージで、落ちついて、やるべきことをこなすのである。

そして、将来のためになる、あるいは目標の達成のために重要な手のことを「布石」と呼ぶ。「布石」はもちろん囲碁の用語だが、一般的な言葉だし、将棋でも使われる。

「今日はあの布石を打っておこう」という言い方をすれば「今日はあのタスクを処理しなきゃ」と言うより俄然やる気が出る気がしないだろうか。

「あのToDoはもう終わっている」というより、「もうすでに手は打ってある」という方がかっこいいではないか。

その流れでいくと、一般的に「プロジェクト」と呼ばれるものは「策」と言うようにしたら面白い。「プロジェクトを達成した」と言うところを「我が策、成れり」と言えば、もう気分は神機妙算、神出鬼没の天才軍師である。

羽生善治さんが「有利な時も不利な時も最善手を指すだけ」と言っていて、もっとも、羽生さんに限らず将棋を指す人なら誰もが言うことでもあるだろうけど、それは僕の座右の銘になっている。

将棋ではどんなに状況の悪い時でも投げ出さずに、投げやりにならずに、冷静によく考えて、最善の手を選び続ければ、それが起死回生、大逆転などということにつながっていくことが往々にしてある。

将棋を人生の縮図と考えれば、人生もまた最善の一手一手の積み重ねで、局面が大きく変わっていくものだろう。将棋は人生と必ずしも同じではないが、必ずしも異なるものでもなく、少なくとも、それを信じて大切に手を指していこうと思うには十分な動機づけとなる。

そういったことを忘れないためにも、僕の中では、ToDoとかタスクという言葉は使わないようにして、「手」「布石」などを使っていくことにしようと思う。

脳トレ

頭が悪くなってきたと思う今日この頃なので、ちょっと脳トレでもやろうと思い、アンドロイドアプリの脳トレをやってみた。

テストをしてみると、脳年齢が出てくる。脳年齢は、出題される課題に対して、正解するまでの速さとか、正確さとかで判定されるようだ。

最初にやった時、全く要領がつかめず、正解するのにものずごく時間がかかった。

特に、「19×17」みたいな二桁の掛け算が出てくるのだが、これを暗算で解こうとすると、全くできない。僕は、2ケタの掛け算となると、筆算しかやったことがなく、これを暗算でやろうとしたら、どう考えていいのかわからない。なんとか、頭で筆算を思い浮かべてやろうとするが、「えっと七九63だろ、で7×1は7で・・・・・・で7×9は何だっけ?」となってしまう。先にしておいた計算を覚えておけない。しかも、なるべく早くしなきゃいけないというプレッシャーもあるので、落ちついて考えることもできなかった。

「うわ~もうわかんないよ~」と半泣きで、投げやりに最後までやってみると、脳年齢38歳と診断された。

驚きなのは、38歳の人って、こんなにダメなものなのかということだ。半泣きで「どうせ俺はバカですよ~」みたいな態度で試験を受けるのが38歳なのかと思うと、38歳の人は偉そうに見えても、たいしたことないんだなあと思う。

その後、要領をつかむまで、何回かやってみると、脳年齢は26~30くらいが出ることが多くなった。苦手分野は「記憶」であることもわかった。

僕が今、何歳だったか、あまり覚えていないけど、62歳くらいだったと思うので、実年齢よりは若く判定されている。ひとまず安心である。

実家で大事件

前回の記事の通り、落ち込んでいたら、そこに実家から電話がかかってきた。

どうやら、地震の影響で、すぐ近くで火事があったらしい。

その家は、僕の実家のはす向かいと言うべきか、斜め隣と言うべきか、細い通り道を挟んで建っている家なのだが、ほぼ全焼ということだ。骨ぐみだけ残っているような状態だという。

「今も消防車がたくさん外にいる」と母はしきりに言い続けた。

「うちは大丈夫だったけど、なかなか消防車が来なくて、こっちにも燃え移りそうで本当に怖かった」そうだ。

実家にはもう2年近く帰っていないが、あちらでは、とんでもないことが起こったようだ。

「とにかく火のもとには気をつけて」と言われたが、何度も聞かされたその言葉に、かつてないほど説得力を感じた。

落ち込む

頭が悪くなっている。

今日、バイトでレジを打ったが、間違って、同じ商品のボタンを2回押してしまったらしく、1個でいい所を、2個分の値段で会計してしまった。

お会計が終わって、お釣りを返した後で、そのことを指摘され、初めて気づいた。

それまで、気付かなかったところが、まず、一つめの頭の悪いところだ。

でも、それ以上に、そのあとで、正しくお会計をし直さなければならなくなったとき、どうしていいかわからなくなってしまったのが、問題だ。

その時、もう一度、お会計をやり直すということしか頭に思い浮かばなかった。でも、もうお釣りも全部返してしまったので、それをまた戻してもらうなどという手間のかかることはできないし、と思案していた。

すると、そのお客さんが「一個分の値段をバックしてくれればいいんじゃないの?」と言う。

なぜかその時「そうか!」とは思わなかった。「そうかも」と思った。

とりあえず、そうっぽいので、その分のお金を返した。でも、頭ですっきり納得しているわけでもなかった。5千円札をもらって2900円くらい返しているけど、本当なら、いくら返すべきだったのか、計算しなくても本当に大丈夫なのか?

やがて、一個分の値段を多くもらっているのだから、それを返せばいいだけなのは、火を見るより明らかだと気付くと、途端に悔しさがこみあげてきた。

なんでそんな簡単なことが、すぐにわからなかったのだろう。

僕はいつからこんな馬鹿になってしまったのだろう。

頭がクリアに冴えているときの僕なら、こんなのはすぐにわかるはずなのに。今日だけ、たまたまなのだろか? それとも最近、頭を使うことをさぼっていたために、どんどん頭が悪くなってしまっているのかもしれない。

お客さんも、ダメな店員だと思ったに違いない。

こう考え始めると、どんどん考えは悪い方に転がっていき、「なんで、こんなことになってしまったのだろうか。いままでの生き方が間違っていたに違いない、もうダメだ。死にたい。」くらいのところに行き着いてしまう。

それから、自分に対する苛立ちがしばらく続いた。

お会計の、お金のやり取りと言うのは、単純に考えれば簡単なことなのだ。お金と物の等価交換だ。それが頭にあれば、そんなにおかしなことにならないはずなのだ。でも、具体的な細かい数字を前にしてしまうと、途端にそのことを忘れてしまう。普段の生活でやっているのは、お金を払ってお釣りをもらうという、数字のやり取りがほとんどだからだ。

昔から、そこに目をつけた有名な詐欺があるくらいだ。「壺算」という落語の小噺である。

すごく内容を簡略化して紹介すると
「壺ください」
「大きいのが8万円、小さいのが4万円です」
「小さいのをください。はい4万円」
「まいど~」
しばらくして
「さっき買った壺なんだけど、やっぱり大きいのにしてください。で、この小さい壺は下取りしてください」
「はい、わかりました。では4万円で下取りますよ」
「じゃ、その4万円と、最初に渡した4万円。合わせて8万円だから、大きいのもらっていきますね」
「はい、まいど、どうも~」

という感じだ。これは簡略化されているので、どこがおかしいか気づきやすいだろうが、これに、複雑な事情や、世間話、もっと細かい数字などがからんでくると、意外と騙されても気付きにくい。

昔、志村けんのコントでもこういうのがあったのを覚えているが、当時小さかった僕は、詐欺であることを見抜けず簡単に騙されてしまった。

そのくらい、お金は混乱を招きやすいものだからと、自分を慰めてみる。

それにしても、最近は昔と比べて、ひらめきも生まれないし、頭が悪くなった気がして仕方ない。最近は決まった作業ばかりの1日を過ごすことが多く、腰を据えた読書も、クリエイティブなこともできない日が続いている。それにも原因があるのだろうか。

僕も、もう終わってしまったのかもしれないと、本当に落ち込む。始まってもいないのに・・・・・・。

洗礼を受けた話

そんなわけで、アンドロイド端末を入手した僕。安月給のくせに、よくそんなお金の余裕があるなと思うかもしれないけど、月々の交際費とか電話の通話料がゼロ円なので、その分、こういうところにお金が使えるのである。友達を減らすだけで簡単に欲しいものが手に入るよ。みんなもやってみよう。

さて、アンドロイドを手にしてみて、あまりの素晴らしさに驚く。知ってはいたけど、実際使ってみて、改めてこんな素晴らしいものがこの世にあったなんてと感動。今までの携帯電話とはまるで違う。とにかく動きが速い。

思った以上に使えるので、これなら、生活の中心をここにおいても大丈夫だろうと思った。

つまり、忘れそうなことを通知してもらったり、スケジュールを教えてもらったり、日常生活のあらゆる場面の管理をこれで行うのだ。

目指すは、アンドロイドアプリを使った、日常生活の完全仕組化。

スケジュール管理はずっと課題であった。手帳を一応持っているが、書いたり書かなかったり、見たり見なかったり。だから、この機会に、しっかりやってみようじゃないか。

ここ何日かは、ブログの更新などには目もくれず、寝不足になりながら、スケジュールやtodo管理の使いやすいアプリを探しまわっていた。

どれも、一長一短で、「こっちのアプリのこの機能が、こっちのアプリで使えればいいのに」みたいな感じで、なかなか「これ」というのは見つからない。

パソコンでアプリの紹介ページとかをいろいろ見て回っているだけで、気付くと8時間くらい、ご飯も食べずに調べ続けていて、休みの日が一日つぶれていた。ほら。スケジュール管理をしっかりしないから、こういうことになるのである。

しかし、これを無駄な時間などと思っていはいけない。エジソンなら、こう言うだろう。「使えないアプリをこんなにも発見できた」。

エジソンがフィラメントの素材を探していた時と同じような境遇に今僕はいて、いろいろなアプリやツールを調べながら、確実に前進しているのだ。

そんな中でとうとう見つけた!使いたかったアプリ。

「ことばのパスルもじぴったん」無料版!

「もじぴったん」おもしろいんだよね。さっそくダウンロード。

無料版とは言え、なかなか手ごわい。やりごたえがある。一通りクリアはしたが、今度はハイスコアを更新しないと気が済まなくなってくる。なにしろ、ハイスコアを出すとスタンプがもらえるのだ。全部スタンプがたまるとなんと、大きなスタンプがもらえるのだ。これはやらないわけにはいかない。

で、結局、また寝不足。スケジュールどころか、生活に支障が出そうだ。

これも、アンドロイド端末を手に入れた人のほとんどが通る道、アンドロイドの洗礼なのだろう。

Zシリーズ

まず、はじめに、スマートフォンはしばらく買わないことにした。

去年の終わりごろ、スマートフォンを買おうか迷っていた。もともと、パソコンなど、便利なものにはものすごく興味がある。手元でインターネット、動画などが見られるスマートフォンには興味があった。

とはいえ、そこには高い壁があり、簡単に手は出せなかった。通信費も、本体の値段も、大変結構なものだ。「さすがです」といった感じだ。

だが、そこで、その壁を取り払う策を発見した。WiMAXを契約し、光回線を解約することで、今までの「光+携帯パケット」の通信費を「WiMAX」一本に絞る。

これによって、通信費の壁が崩れたどころか、むしろ、今までより安くあがるかもしれないという希望すら見えた。

ところが、WiMAX機器をレンタルして、試してみたところ、自宅内では期待したほどの速度が出ず、ネットは家で使うのがほとんどの僕にとって、安定した光回線を捨ててまでとはならなかった。

この結果を受けて、今スマートフォンを買うのはやめて、春ごろまで様子を見ようということになった。それが去年の話。

その後、携帯料金プランを見直し、メールし放題プランに変えたり、通信を使うサービスをやめることで、パケット通信をほとんど使わない形にした。

様子を見ていると、様子は見るものだと思う。

相変わらず、この分野は日進月歩である。3か月様子を見ただけなのに、あわててスマホやWiMAXを契約しなくてよかったと思える情報がどんどん入ってくる。スマホ本体も、新機種がつぎつぎ発表されている。もう少し待てば、もっといいのが出るかもという雰囲気が常にあって、大縄跳びの縄にいつ入ろうかみたいな感じになって、選ぶのが難しい。ちなみにiphoneは買わないことにしている。理由は、持っている人があまりに多いから。

それ以上に注目なのは、次世代通信サービス。「ソフトバンク4G」や「イーモバイルLTE」。ソフトバンクの方は2月に始まっていて、イーモバイルの方は3月15日からサービス開始。これらなら、いままで最速と噂されていたWiMAXを上回る速度が出るかもしれない。

特に下り最大75MのイーモバイルLTEは2年契約で月3880円と、これまでと変わらない料金設定になっていて、かなり期待できる気がする。

どちらも、エリアの拡大、整備にはまだ時間がかかるだろうから、しばらく様子を見てみることにする。ネットで口コミなどを集めて、よさそうだったら、光回線を捨ててそちらに乗り換えるつもりだ。


さて、前置きが長くなったけど、次に本題。スマートフォンはしばらく買わないことにしたけど、その代わり、アンドロイド搭載のウォークマンを買ったよ。ウォークマンのZシリーズ。今、買ったばかりなので充電中。

家で、wifi接続して使う。外ではネットには繋がらないけど、ウォークマンは聴けるし、ダウンロードしたアプリで楽しめるし、これからのITの世界の変化を眺めながら気楽に使うのにちょうどいい。

いつもウォークマンは持ち歩いていたので、それがグレードアップしたという感覚。

これなら、スマートフォンより安く(物や店や補助金にもよるけど)、アンドロイド端末や、アプリが使える環境が手に入り、今使っているメールの文字が打ちやすい携帯電話(そろそろ本体の分割払いも終了になる)もそのまま使える。我ながらいい選択をした思う。急いでスマートフォンにしなくてよかった。

ただ、ウォークマンにしてはでかい。大画面だ。それは長所でもあるけど、胸ポケットとかにちょこっと入れておけない感じではある。

あと、カメラが付いていない。写真はそんなに好きではないけど、QRコードを読み取るとか、本や雑誌とか、掲示物の気になる部分をメモする代わりに写真に撮るみたいな使い方はしたかったので、おもちゃ程度のものでもあった方が嬉しかったかなとは思う。

さて、そろそろ、充電できたかな。

エクソシスト

相変わらず、いろいろ映画を見ている。100本見ることにしたというのは以前に書いたとおりだが、今のところ、30本を過ぎたくらいだ。

昨日、『エクソシスト』を見た。ホラー系はめったに見ないのだが、そういうのも勉強のために見ておかねばと思った次第。これが、衝撃的なシーンの連続だった。夜寝る前に見たため、布団に入っても、恐ろしいシーンの数々が止めどなくよぎり、神経が高ぶってしまって、なかなか寝付けない。

そこに、突然、携帯電話から、地震を知らせる大音量!

もう、勘弁してほしかった。いい年して泣きそうだった。

新しいメガネを買ったこと

弱点の話を、最近していたけど、僕にも強い部分くらいある。

新しいメガネを買ってみた。これから頑張るので、そのご褒美である。

メガネ屋さんで選んだときは、いい感じだと思ったのだが、家に帰ってきてかけてみたら、「あれ?なんか違う」。すごい違和感。店で試着したときと、家でかけてみた時、全然違って見える。

妙に目が小さい。

どうやら、度が入ることによって、目が小さく見えるようになってしまったようだ。

近視用のメガネだと、顔の輪郭はくぼんだ感じになる。つまり、メガネの奥はちょっと小さく見えるのだ。

近視メガネをお持ちの方は試してみればよくわかると思うが、顔からレンズを離すほど、目は小さくなっていく。

今回買ったメガネが、前のと比べて、ブリッジというか、鼻にあてる部分が高くなっていて、その分、顔から離れたために、かけたとき、僕の目は小さくなってしまう。ましてや、僕の度は強いのだ。より小さく見えるのだろう。(そう、僕の強い部分、メガネの度。)

今回、そんなことまで考えずに買ってしまった。

ちなみに、デザインは、マヌケ面をすこしでも、しまって見せるように、ちょっと角ばった形、知性を引き立たせるため、ふちはすこし細め、しかしおしゃれさ、カジュアルさの演出のため、サイドがやや太めのフレーム。あまり冒険しすぎると後悔するだろうということと、草食系メガネ男子っぽくも見えるということで、色は黒にした。

本当にやろうかな、いつかどこかで

前回の気持ち悪いものの件だけど、アニメのワンピースで、ルフィの「ゴムゴムの風船」で膨らませた体に、たくさん大砲とか、鉄砲の弾がめり込んでるところとかも気持ち悪いんだよね。

何か黒いものがたくさんめり込んでると気持ち悪いんだな。たとえば、餅とかにBB弾をたくさん、深めにめり込ませたら、だいぶ気持ち悪いものが出来あがりそう。

う~ん。「気持ち悪いもの展」の構想が膨らむなあ。

気持ち悪いもの展

自分の弱点をさらけ出せる人は素敵だと聞いたことがある。

昨日の喉の話以外にも、僕には弱点があるんじゃないかと考えてみた。これは、弱点と言えるのか。誰でもそうかもしれないけど、タピオカのたくさん入ったココナッツミルクをじっと見てるとすごく気持ち悪いよね。鳥肌がたつ。「タピオカ」で画像検索したりすると、そういうのが結構出てくる。

他にもこの感じを味わおうと思ったら、黒ゴマをたくさん器にいれて、そこに牛乳をちょこっとかけてみれば、気持ち悪いものが出来上がる。黒ゴマだけなら大丈夫でも、牛乳をかけるだけであんなことになってしまうなんて。

なぜなのだろうか、やはり、黒くて小さい粒状のものは虫(蟲)を連想させるから、人類はそれに不快感を持つように進化したのだろうか。黒い粒でも、きれいな水玉もようの配列なら大丈夫なのに、不規則だと相当気持ち悪いんだよね。

あと、先が二つに割れてたりして、変な形のいちごの、くぼんでる部分の種の配列をよく見てみると、これも気持ち悪いよ。密集してるの。種が。ぎっしりと。で、一個一個に毛みたいなのが生えてる・・・・・・。

シダ植物の裏にくっついてる胞子もすごく気持ち悪い。中学くらいの理科の資料集に写真載ってた。

なんか、将来、そういう気持ち悪い模様とか写真をたくさん集めて展覧会を開きたい気がする。「いやだ~きもちわる~い」などと言いながら、結構多くの人が怖いもの見たさで集まりそうな気がする。もちろん、本当に気持ち悪いのは展示しない。ゴキブリの大群とか。腐った食べ物とか。そういうことじゃなくて、「なんでこの模様こんな気持ち悪く感じるんだろう?」って思うようなものをたくさん飾る。当然売店ではタピオカジュースを売る。

喉と声

自分の弱点をさらけだせる人は素敵だと、聞いたことがある。

僕の弱点の一つに「喉の話に弱い」というのがある。喉。咽。のど。表記の仕方はいろいろあるが「喉」にしておこう。

喉の異常や病気の話にはすごくストレスを感じてしまう。喉は繊細な場所というイメージがあるからなのだろうか。同じ体の一部なのに、喉、特に声帯には、明らかに他とは違う特別な感情を抱いてしまう。

例えば「喉から血が出る」は「肘から血が出る」の10倍くらい怖い。「喉にポリープができた」ときくと「胃にポリープが出来た」の3倍くらい、「足の裏にポリープが出来た」の15倍くらい重症に思えてくる。「歌手が喉のポリープの手術をした」というニュースを聞いた時も、血の気が引いていくような感じがした。

もんたよしのりさんが、ハスキーボイスを獲得するために、大声で叫び続けて、声を潰した話を聞いたときも、こちらが大声で叫びたくなるくらい、不快感があった。もちろん「声を潰した」という話にたいして、なぜか感じた不快感で、声に対する不快感ではない。

朴璐美さんが鋼の錬金術師エドワード・エルリックを演じる際、声をわざと潰して臨んだというエピソードを聞いた時も凄くストレスを感じた。「戻らなくなっちゃったらどうするんだよ」とも思った。

「トリビアの泉」で、少年が声変わりする瞬間をとらえたレコードがあるといった内容のトリビアが紹介されたことがあった。声変わりが起こる前後に歌を歌って、それを記録したものだったのだが、最初に声が変わる前の、子どもの声が出てきて、その段階でかなりの胸騒ぎがした。案の定そこから、日付けが先に進んでいく。明らかに変わっていく声。ストレスで悶絶し、気がおかしくなりそうだった。「もうやめてくれー」と叫びたかった。そんな状態で歌を歌わせるなんて酷い、人間のやることじゃないと思った。

こうして書き出してみると、喉というより「声」に対して弱いのかもしれない。強い不快感が先立つので、理由は分からないが、声には、顔のように、その人自身を示す重要な役割があるから、無くなったり、変わったりすることに抵抗を覚えるのかもしれない。

喉や声の話に不快感を感じるのは、僕だけじゃないだろうけど、僕はかなり重症の部類に入る気がする。

思い出

今年から、物を減らずために、毎日10個ずつ何か捨てていくことにしている。

それを100日続けようとしているが、2月も半ばを過ぎ、ようやく半分まで来た。

ここまで来ると、明らかに要らないものはほとんどなく、だいぶ、苦しくなってきた。捨てるべきか迷うものも多くなってくる。やはり、迷うのは、使う使わないではなく、思い出のあるものだ。

それが、ビデオテープ。学生時代に出演した、演奏会を撮影したものがある。記念に持ってはいるが、一度くらいしか見ていないし、これからも見ないだろう。そもそも、その頃の演奏の仕方はかなり不格好で、もう見たくない。

でも、遠い将来、見たくなる日も来るかもしれない。年をとって、人生を振り返りたくなる時もくるかもしれないし。VHSという媒体自体古いので、テープはどのみち捨てるとして、捨てる前に一応DVDに残しておくべきだろうか。

DVDにダビングしてもらうサービスもあるが、結構高い。自分でやるのも大変そうだし、よくわからない。

そこまでして、思い出を形として残す必要はあるのだろうか。

思い出を残すことは、それほど大切なのだろうか。

昨日、写真の話なんかしたけど、なんでそんな話になったと言えば、このことに直面したからだ。

人にとって、思い出とはなんなのだろう。お金をいくら貯めても、それを持って天国には行けないというが、思い出もまた同じではないだろうか。確かに写真を見ることで、その時の気持ちを思い出したりするだろうが、それが一体何になるのだろう。

写真やビデオが残っていなくても、僕本人はいる。

過去の記録を見て「この時はよかった」などと言っても、もうその時の僕はいない。

思い出は、過去から自分の足を引っ張る足かせに過ぎないのではないかとも思えてくる。

きっぱり捨ててしまうのもありかもな。

でもなあ、一応もう少しとっておこうかな。

写真

多くの人が、日ごろから、写真などを撮っているが、一体何のためにやっているのだろう。

みんな写真で自分の姿を見るのがイヤじゃないのだろうか。

僕の場合、自分の写真はほとんど残っていない。友達がいなかったので、撮ってもらう機会もなかったし、人の写真を撮るのも「撮っていいですか?」などと聞けなかったので、ほとんど撮っていない。だから、僕の手元には一人で出かけた時に撮った、建物や風景、実家のふすま、完成したパズルなど、人物の写っていない写真がわずかにあるだけだ。

保育園児だったころ、僕はほぼ100パーセントの確率で、集合写真を撮られるとき、目をつぶっていた。日光に弱いため、まぶしさに耐えられなかったのだろう。なぜ、写真を撮るとき、まぶしい方をいつも向かされるのかと、腹が立って仕方なかった。

いつも同級生から「また目つぶってる~」と冷やかされていた。それが悔しくて、次こそはと思っていると、眉毛だけ一生懸命に上げながら目をつぶった僕の顔が現像されて出来あがってくる。

「あ、俺また目つぶってる、ははは」と無理におどけてみせたが、心の中は、そうしている自分に対しても、悲しさと悔しさでいっぱいだった。

小学校の卒業写真は、かろうじて半目を開けているが、広げようという意識が、鼻の穴にまで及んでいる。

写真で見る僕はいつも醜く、人の目にはこんな風に見えているのかと落ち込み、なぜ、みんなこんな醜い人間に対して、やさしくしてくれるのか理解に苦しんだ。それは、突き詰めれば、美しいものばかりを愛そうとする自分の醜い心の投影、映し鏡でもあって、何にせよ、見れば見るほど、自信をなくすものでしかない。

僕にとって、自分の写真を見ることは、自分の醜さを確認するためのものでしかないように思え、これまで積極的に残したりしなかったし、これからも、焼いた餅がぷくーっと膨らんでいるところの写真以外撮らないことにしようかとも思うほどだ。

だから、たくさんの写真を撮る人というのは、どういう気持ちで撮っているのか、想像しがたい。思い出に浸るのが好きなのだろうか。やはり、誰かと出かけても、気疲ればかりで心から楽しんだことのない僕と違って、「この時は楽しかった」と言える思い出がたくさんあるのだろうか。自信があるのだろうか、幸せなのだろうか。いずれにしても僕とはちょっと違う性質を持っている人に見える(僕の方が少数派なのだろうけど)。

そう考えると、人を見るとき、その人が、写真が好きかどうかという点で見ると、その人を、特に自意識とか自信の部分を知る手掛かりになりそうな気がする。

第2の人生

いま、気になっていることを、3時間くらいかけて書きだしてみるといいよと、ものの本に書いてあった。3時間は長いと思われるかもしれないが、そのくらいかけて、どんな些細なことも洗いざらい出しきってしまうのがいいらしい。

ということで、昨日、早速やってみた。

出てくる出てくる。

箇条書きのような感じで書きだして、ノート10ページ分、一気に書いた。こんなにやりたいこと、いっぱいあったんだなあ。

かなり頭がすっきりしたし、今やるべきことも明確になった気がする。

最終的には10年後、20年後、30年後の自分の生き方や、目標にまで考えが及んでいた。

40代、50代になったら、仕事の片手間でもいいから、第2の人生として、音楽家になろう。

子どもの頃、ピアノを習っていたが、ピアノの先生からは、演奏よりも、楽譜に対する理解が早く、こんなに飲みこみが早い子はいないとまで褒められ、作曲などに向いているのではと言われていた。

人間、褒められたことは忘れないものである。先生が演奏に対するフォローとして言ったことも、「そういえば俺、作曲の天才だった」くらいの解釈で今でも覚えているのだ。僕の中では、僕が作曲の天才であることは真実になってしまっている。

その才能を寝かせておくのはもったいない。作曲を学び、それに必要な程度のピアノを身につける。演奏家としては、中途半端にやったバイオリンをちゃんと弾けるようにしたい。

名探偵コナンのテーマとか、古畑任三郎のテーマとか、インディージョーンズのテーマとか、ウォレスとグルミットのテーマのような、何かのテーマ曲を思わせるような、聴けばそれとわかるような、口ずさんでしまうような曲を僕も作ってみたい。自分で演奏することを考えて、バイオリンを中心とした曲がいい。作詞をして、歌を作るのも面白そうだ。ピアノ弾き語りで歌う。ちなみにギターは意地でもやらない。

そのためには30代でお金をためて、40くらいになったら、音楽の出来る家に住むことにしよう。

と、そんな第2の人生への現実逃避もできて、3時間かけて、頭の中の気になることを全部書きだす作業はとても有意義だった。

さて、第1の人生(現実)に戻るとするか。

バイキング

バイキングっていいよね。

特に朝食バイキング。

朝食バイキングでどう立ち振舞うかを考えるだけで、楽しい時間が過ごせる。渋滞に巻き込まれたときとか、行列に並んでいるとき、蔵に閉じ込められたときなどは、朝食バイキングのことを考えればいいと思う。

まず、軽くもりつけたご飯に、味噌汁に、ハムエッグ、ソーセージ、鮭の切り身、味付けのり、サラダ。あとは、ひじきの煮物等を適当に。

食べ終わったら、今度はバターロールとクロワッサンを2~3個と、フルーツ&ヨーグルト、そしてコーヒーを持って来る。

それも食べ終わったら、最後のしめにもう一杯コーヒー。これが僕の理想。これならバイキングでなくてもよさそうだけど、バイキングならではの楽しさってあるし。

ファミレスのココスで朝食バイキングをやっている店舗もあるらしい。残念ながら、うちの近くにはない。

ココス以外で、低価格で朝食のバイキングとかやってる店ってあまりないよね。残っちゃってもったいないとか、いろいろ難しいのかな。残ったやつでお弁当を作るとか、うまくやれば、ビジネスチャンスにならないかな。朝はバイキング屋で、昼はお弁当屋とか。僕はビジネスに興味がないからやらないけど。

模様替えの成果

昨日、模様替えをした。いつも寝ているロフトの上を中心に改善した。

前回、早起きピッチングの話をしたが、早起きの習慣というのはなかなか身に付かないもので、未だに早起きは成功、失敗入り乱れ、不安定な状態。すっきり目覚めるための、試行錯誤の日々が続いている。

僕の場合、特に睡眠障害があるわけではない。起きようと思えば起きられるはずなのに、意思が弱く、ちょっと辛いだけでも耐えられないため、目覚ましが鳴っても、止めてまた寝てしまうという二度寝、三度寝タイプの起きられない人だ。だから、ちょっとのコツで改善されるような気がする。

毎日のことなので、爆音の目覚まし時計が鳴るや、飛び出るパンチグローブで顔面を殴られた後、ベッドがダンプの荷台みたいな動きで起き上がり、頭から水に落とされるといったような、強制的で無理やりな起こされ方は嫌だ。なるべくストレスがかからず、気持ちよく自発的に起きられる方法を探している。

朝、光を浴びると、目がさめやすく、起きやすいというので、今回の模様替えで、電気スタンドを、寝床付近に置くようにした。

タッチセンサーで点くやつなので、アラームをセンサーの部分のそばに置いておいて、アラームを止めると、ライトがつくという仕組みを作ってみた。

今朝、試してみたら、結構うまくいった。ただ、初日は新しいことを始めたわくわくもあり、うまくいって当然とも言えるので、今後の経過を見てみないと、有効な方法と言いきるのは早い。

これまでも、ずっとやっているのは、起きたい時間の30分くらい前からタイマーで、小さめの音でCDを再生するという方法。眠りが浅くなってきたころ、耳に入ってくるくらいの音量がいいらしい。どんな曲を流したとき、目覚めやすいのか実験している。

僕の好きなクラシックの曲や、ミスチル、ウルフルズ、ELT、倉木麻衣、真心ブラザーズの曲などいろいろ試してみた。結果、分かったのは静かすぎても、うるさすぎてもうまくいかないことだ。静かだと起きる気にならないし、うるさいと「うるさいな!」とすぐ止めてしまうからだ。

これまでのところ、BoAのベストアルバムを流したとき、起きられる確率が高いことが分かっており、ダンスミュージック的な、アップテンポで、ちょっと気分を盛り上げてくれるものがいいのかもしれないという仮説が立っている。

そこで、Perfumeの「JPN」というアルバムをしばらく試すことにした。短いオープニングのあと、「レーザービーム」という、脳波が踊りだしそうな曲が入っていて、朝の目覚めにはよさそうだと手ごたえを感じている。別にPerfumeのファンではないのだが、朝起こしてくれるからという理由でこれからファンになってしまうかもしれない。

アイデアマラソン

樋口健夫さんという人が提唱した、「アイデアマラソン」というものがあると知り、さっそくその本を読んでいる。

毎日ノートにアイデアを書きためていこうというものなのだが、この「アイデアマラソン」というネーミングも、内容もいかにも僕が考えそうなことだ。

実際、これに近いことをやろうとしたことは何度もある。毎日1ページ何か書くぞと意気込んで、新しいノートを買ってきては、3ページくらい書いてあとは白紙のノートを何冊も作ってきた。

僕の三日住職ぶりとは違い、樋口さんは毎日ノートにアイデアを最低1個書くという習慣を30年以上続けていて、ノートは300冊以上たまっているらしく、そういう、目に見える形で蓄積されているものがあるというのが、実にうらやましい。

僕の場合、思いついたアイデアはEVERNOTEに記録しているので、同じやり方で「アイデアマラソン」はやらないが、パソコンだけではアイデアのまとめや、ブレインストーミングには不向きだと思い、アナログのノートも併用していたので、これからはそのノートも、しっかり保存しておけるような、厚めのしっかりしたやつにすることにした。

「アイデアマラソン」はいかにも僕が考えそうなことだと言ったが、過去には「生活習慣スタンプラリーシステム」とか、「自分にご褒美ポイント制度」などを勝手に作って、やり始めてはすぐに飽きてやめるを繰り返してきたため、そんなことを感じたのだろう。

一番最近考えたのは「早起きピッチング」だ。これももう1週間くらいかけて、システムを作り上げたが、6日持たずに終了した企画だ。これは、つまり、なかなか早起きの習慣が身に付かないので、モチベーションアップのため、1カ月を1シーズンとして早起きができたら1勝、出来なかったら1敗とし、ピッチャーとしてダルビッシュや田中の記録に挑もうというものだった。

単純にそれだけなら、続いたかもしれないが、僕はそこでなぜか防御率においてもダルビッシュやまーくんと張り合いたいと思ってしまい、読書や執筆の量に応じて、防御率が上下するというルールと、その計算式なども作ってしまったために、すぐ面倒くさくなって辞めてしまった。結局、1軍登板すらほとんど出来なかったということになる。

結論として、やっぱりダルビッシュやまーくんはすごいんだということがよくわかった。

一見、僕が考えそうな「アイデアマラソン」だが、もし僕が考えるとしたら、それに加えてゴールの設定や給水ポイント(ここまできたらおいしいものが食べられるなど)の設定なども行ってしまうのだろう。そのうえで、マラソンコースマップを作って、現在地がどこかわかるようにフィギュアを置いたりしてしまうのだと思う。そして、いつものことながら、すぐ飽きてやめてしまうのだろう。

やる前からそれが分かるようになったので、そういう意味では僕も成長したと思う。昔の僕なら「俺の考えた『アイデアマラソン』の方が絶対面白いぜ」とか鼻息を荒くしていただろう。恥ずかしいことだ。

テンション

テンションが高いとか低いとかいうが、僕ももっとハイテンションな人間になれないものかと、思うことがある。憧れもする。

アンタッチャブルのザキヤマさんとか面白いと思うが、「からの~?」とかを、まねて言うことは、僕にとってかなり難しいことに最近気づいた。

「からの~?」を面白い感じに言うには、ザキヤマさんみたいに、常に高いテンションでしゃべっていないと難しいわけで、常に暗くて、テンションが低い落ちついた雰囲気が魅力の僕にとって、マネするのが難しいのも当然かもしれない。

今でこそ、草刈正雄のように落ちついた雰囲気の僕も、子どもの頃は、自然にテンションが高かった。家でクリスマスを祝った時、フライドチキンなどの豪華料理が並び、楽しくて、大はしゃぎで箸を両手に持ったまま走り回っていたほどだ。

その時、手に持っていた箸が、はしゃいで、ぶんぶん腕を上下した拍子に、鼻の穴に突き刺さり、大量の鼻血が噴き出して以来、僕はすっかり笑わない子になってしまった。

そんなわけで、今の僕では、いくら憧れようと、自然に高いテンションにはなりそうにない。そう見えるように演技するための演技力を身に付けるくらいしか出来ないのである。

演技の勉強をもっとして、幅広く自分を表現できるようにしておきたいものだ。

もっと自由に

映画を100本観ようと決めてから、さっそくたくさん観ている。

例えば、昨日は『RAILWEYS』という映画を観た。感動的な、すごくいい映画だった。なにしろ中井貴一が出てきて、怒ったり、笑ったり、語ったりするのだ。よくないはずがない。あと、電車を運転したりもする。感動しないわけがない。

ツタヤさんでは、映画もたくさん借りているし、マンガもちょくちょく借りている。相変わらず、アマゾンやブックオフで本もたくさん買っている。最近は、手当たり次第に、借りたり買ったりしていて、自分でもなんだかわからなくなってきている。何を優先するべきなのかもわからない。

でも、今は、あえて欲望と自然に任せてみようかと思う。そうすることで、本当に自分がしたいこと、好きなことは何なのか、もう少しわかってくるかもしれない。自分の心を観察しながら、好き勝手やってみようと思う。

いままで、自分を規制しようとしすぎてきた。計画的に考えて、努力しないとだめだと、自分を戒めてきたけど、もっと、勝手にやらせてみようと思う。それが最近、急に浮かび上がってきた考え方だ。

悪夢

朝、目が覚めて、いつものように布団の中でうとうとしていると、いつの間にか恐ろしい悪夢の世界に入りこんでいた。


僕は、どうやら学生で、修学旅行のような、団体での旅行に参加しているようだった。

旅館のようなところに入っていくと、食堂らしき広間の前で従業員らしきおばちゃんが「食事のご用意できてます」みたいなことを大声で呼びかけている。

広間に入ると、テーブルには既にお盆に載った食事がずらりと配膳されていて、生徒たちは、おのおの好きな所に座って食事を取るらしかった。

僕も、適当に端っこの方に座ろうと、端っこの席に向かって歩き出す。でも、そこには別の生徒が先に座ってしまい、僕は別の席を探さなければならなかった。

しかし、すでに多くの席が埋まっていて、空いている席はなかなか見つからない。

見知った顔の男子生徒の横が空いていたので、そこにしようとしたが、彼は、僕が席を探しているのを一瞥すると、あとから来る友人のためか、そこに手荷物を置いた。そこもあきらめざるを得なかった。

そうだ。僕には友達がいないから、いつもこうなるんだった・・・・・・。

空いていそうな席を見つけても、「そこ空いてる?」と聞くのが怖くて、ためらっているうちに、どんどん席は埋まっていく。

少し離れたところに、空席を見つけたが、そこは女子生徒が固まって座っているテーブルの女子のグループとグループの間に自然に出来た一席で、そこに座るのは嫌だった。

他を探さなきゃ。見回すと、みんな楽しそうにワイワイそれぞれの友達と話している。

そうしているうちにも時間は過ぎ、どんどん選択の余地はなくなっていく。

こんなことなら、食べ物なんていらないのに・・・・・・。

絶望的な気持ちで、あてどもなく、さまようしか僕にはできることはない。


我ながら、驚くほどリアリティのある夢だと思う。

それもそのはずだ。僕は実際に、毎日そういう学生生活を送っていたのだ。

団体行動では必ずそういう目に遭う。バスに乗ることになれば座る場所はなく、屋根の上の方がどれだけ楽だろうといつも思っていた。

久しぶりに「あの気持ち」を思い出した。

今もこの国には、あの頃の僕のように「あの気持ち」で苦しんでいる人がきっと大勢いるのだろう。

僕に、彼らを救うことはできないだろうか。いや、「救う」などおこがましいことは言いたくない。彼らには自分で道を切り開く力があるはずだ。それをどうにか伝えたい。

僕が生きているうちに、その仕事はやりたいと思う。

奴らの仕業か

昨日、コンビニでオレンジジュースを買って帰り、冷蔵庫に入れておいた。

そして、今日の朝、冷蔵庫を開けて驚いた。買ったはずのオレンジジュースが、アップルジュースに変わっている!

たぶん僕が寝ている間に、完全犯罪ごっこみたいなことをするのが好きな少年たちが入れ替えてしまったのだろう。まったく油断も隙もない。


文文明明のの子子

やってしまった。

太田さん(爆笑問題)の小説『文明の子』が発売になり、さっそくアマゾンで購入。一冊1680円の本。高く見えるが、僕がいままで太田さんからもらったものの大きさを考えれば、安いものだ。ためらうことなく買うべきだろうと、迷う前に「注文確定」ボタンを押した。

だが、アマゾンからの発送完了メールを見て驚く。間違って、同じのを2冊注文してしまっていたのだ。

いままで、そんなミスは犯したことがなかったし、そんな間違いをする人を、どれだけ軽率なんだと馬鹿にすらしていたのに。

注文前に、値段とか見れば気付きそうなものだが、今回、他にもいろいろ、数百円~千数百円のものも、いくつか一緒に注文したので、合計金額を見た時も、「まあそんなもんか」くらいにしか思わなかった。

こうなると、1680円という値段が急に重くのしかかってくる。全然安くないじゃないか。誰だよ、安いものだとか言った奴は。

返品ということもできるようだが、送料とかは自己負担だし、全額返金とはいかないかもしれないし、損した気分にしかならなそうだ。ならば、災い転じて福とか、こういうハプニングも何かに利用できないものだろうかと、今考えている。

誰かにプレゼントするというのが一番なのだが、ものすごく友好関係が狭いので、あげるべき人も思い当たらない。

2冊あるからこそ、出来ることをやってみるのも面白いかもしれない。1冊は普通に読むとして、もう1冊を全部シュレッダーにかけて、またつなぎ合わせて、パズルとして楽しむとか、中をくりぬいて小物入れとして使うとか。

ちょうど欲しいと思っている人を見つけて何かと交換して、わらしべ長者を目指してみようかな。

ま、いいや、まだ届いていないので、届いたら考えよう。

捨てる捨てる

今年に入ってから、100日連続プロジェクト、「物を捨てる」を実施している。

昨今は「断捨離」などという言葉が出来たようだが、そんな言葉が流行るずっと前から、物が少ない方が快適に暮らせることくらいわかっていた。で、物を減らしたいとはずっと思ってきたけど、「今度引っ越すとき、まとめてやればいいや」と先送りにしていた。

でも、「まとめてやるのは大変だよ。今からでも、ちょっとずつやった方がいい」と、知らないおばあさんが夢枕に現れては、しきりに言うので、考えを改め、1月1日から4月9日まで100日間、毎日10個ずつ要らないものを捨てていくことに決めた。

毎日10個なので、最終的には1000個捨てることになる。今は要らないものがいっぱいあるので、ガンガン捨てられるが、最後の方は、もう捨てるものがなくて、泣く泣く手放す物も出てくるのだろうと思う。「桃鉄」で、借金返済のために、物件をどんどん売っていくような気分になるだろう。

辛そうにも思えるが、そうなるのがむしろ楽しみなのだ。そうなったときに、何を残し、何を捨てるか、その葛藤。そこから生まれるドラマ。考えるとわくわくする。

だから、4月9日までは絶対続ける。ルールは変えない。
1000個、捨て終わったときには、きっと新しい世界が開けていることだろう。

2012年のテーマ

毎年テーマを決めて、それに沿って生きることで、どんどん僕自身と、僕の人生はよくなっていくものだと思うことにしている。

2010年のテーマは「地道」だった。焦らずコツコツ行こうということだ。「雨粒が岩を穿つのは激しく落ちるからではない。何度も落ちるからだ」の精神を身につけることだった。この考え方はずいぶんしみ込んできた。

2011年のテーマは「脱力」。おかげで、すっかり腑抜けみたいになってしまったけれど、だいぶ穏やかな気持ちで過ごせるようになってきたと思う。

そして、2012年のテーマは「世界を広げる」になった。放っておくと、自分の好きな本ばかり読み、自分の好きな映画ばかり観てしまうものだ。そうすると、自然とジャンルが偏ってしまう。自分の小さな世界に閉じこもりがちになってしまう。

そこで、2012年は、なるべく、いろいろなジャンルの作品に触れていこうと思う。今までみたいに、狭い世界を掘り下げるのではなく、広げるのだ。

そこで、課題として、映画を100本観ることに決めた。もちろん映画館ではなく、レンタルで借りて観るのが中心になる。観ようと思っていたのに、「そのうちにね」なんて言って、観ていない映画がたくさんある。そういうのを中心に、100本、あらゆるジャンルのものを観ていけば、だいぶ見識が広がることだろう。

そうして、何か新しいことに興味が湧けば、それがエネルギー源になって、さらに活動的に進化していけると思う。

しゃっくり

昨日は一日中しゃっくりが止まらないという現象が起こった。正確には、止まったと思ったら再発を一日のうちに何度も繰り返していた。

昨日は一日、何をしていたかと刑事さんに訊かれたら、「しゃっくりをしていた」と答えてもあながち嘘ではないくらいだった。

前回書いた、砂糖を飲む止め方も試してみたがダメだった。

しゃっくりもこう出続けると、喉が痛くなってくるし、呼吸も苦しい。仕事中も出ていたので恥ずかしかった。「音姫さま」みたいなやつのしゃっくりの音を消してくれるやつが欲しいくらいだった。ボタンを押すとスピーカーからずっと「ヒック、ヒック」音が流れ続けて、自分の音がまぎれるやつ。

あまり長い時間続くので、これはおかしい、何か病気なのでは? と、ネットでしゃっくりをもう少し詳しく調べる。

「長時間続くしゃっくりは、以下の病気の可能性がある。食道がん、胃がん、脳腫瘍・・・・・・」

がん・・・・・・、脳腫瘍・・・・・・。

念のため「本当は怖い家庭の医学」を「しゃっくり」の項目で調べたら、それで死んでしまう人の話が紹介されていた。

ああ、やっぱり・・・・・・。僕は、もう助からないかもしれない。

レントゲン写真を見ながら、深刻な顔をした医師と僕の姿が脳裏をよぎる。

寝る前、布団の中で、生きているだけでも幸せなんだという気持ちを強くかみしめていた。

人はやれ、金だ、名誉だと口にしては、より多くを得ようと、人を貶め、踏み台にして、欲の化身となっていく。しかし、目を覚ませ。今、自分が、誰より優れていて、誰より劣っているなんて、これから死んでしまうとしたら、どうでもいいことじゃないか。ただ、生きているだけで、それだけで十分なのに。

朝起きると、すっかり、しゃっくりは止まっていた。どうも大丈夫らしい。ちょっと、胃とかの調子が悪かったから、しゃっくりが止まりにくかったのかな。

新しく

しゃっくりがさっきから、出続けているにもかかわらず、このたび、こうしてブログを新しく立ち上げることになった。

ブログを新しく作ると、別の場所で公言してしまったので、早くやらないと早くやらない人だと思われてしまうので、とりあえず始めてみたといった感じだ。

新たなるブログスペースのデザインや、設定などについては、よくわからないことだらけだ。それは、だんだんわかってくるだろうから、置いておこう。そんなことより、今はしゃっくりだ。

しゃっくりはなぜ出るのだろうか?

子どもの頃、しゃっくりは「横隔膜がけいれんを起こすから」出るのだと聞いたことがある。それで、「へえ」と納得してしまったが、今になって考えると、全く、納得行く答えではないと気付く。

横隔膜というものを、まず見たことがないし、横隔膜とはそもそも何なのか、何を司っているのか、偉いのか。

そして、一番知りたいのは、何が原因で横隔膜はけいれんを起こすのだろうか、という点ではなかろうか。

横隔膜が驚いちゃったからなのか、疲れちゃったからなのか、栄養が不足しちゃったからなのか、機嫌が悪いからなのか、恥ずかしいからなのか、それとも理由もなくなのか、そこがわからないことには、今後、しゃっくりを予防することも、止めることもできないではないか。大事な就職の面接中とか、生放送でニュースを読むときとか、しゃっくりをしたことがない人特集で紹介されているときなど、出てこられては、かなり困るという場面もあるだろう。

ということで、さっそく、調べる。

まず、横隔膜は胸とおなかの間を仕切るようにある筋肉でできた膜で、肺の呼吸を助ける働きをしているらしい。したがって偉い。

横隔膜のけいれん、即ちしゃっくりは、明確な原因もなく起こることもあれば、何かの刺激によって起こることも、疾患によって起こることもあるという。つまり、ほとんどの場合、気をつけていれば出ないというものでもないようだ。

だが、調べていくと、しゃっくりの止め方について、面白い情報が得られた。

スプーンに一杯くらいの砂糖を飲みこむと、かなりの率で止まるらしい。これは使えそうだ。これでもうしゃっくりを恐れる必要はない。これから面接がある人も、ポケットにスティックシュガーを入れておけば安心だ。

僕もさっそく試してみようと思ったが、すでにしゃっくりは止まっていた。

人気の投稿