恐怖映画『君に届け』

さて、夜も更けてきたところで、恐怖映画でも見ようかな。

今年は映画を100本見ることにしていて、次に見るのが62本目になる。

そして次に見ようとしているのが、あの映画。

・・・恐怖・・・・・・『君に届け』(キャ~)

フォントをなんかどろんとした感じのやつにしたいくらいである。

椎名軽穂原作、多部未華子、三浦春馬主演。2010年公開。

先日、ツタヤで一度、手に取ったら、胸がキュンとなるとか書いてあるではないか。あまりの恐さに、棚に戻した。

だが、逃げてばかりもいられない。今回、勇気を出して借りてきた。

胸がキュンとしちゃうのか~怖いよ~。

僕も初老の男である。しかも、恋愛など縁のない青春を送ってきている。僕に向けて作られた映画ではないのは間違いない。

キャッチコピー「簡単になんて伝えられない。本当に、本当に大切な気持ちだから。」

見事に恐怖をあおってくるコピーである。

たとえば、日記にそんなことを書いている最中にノートを取り上げられ、みんなの前で読みあげられたら、翌日から確実に登校拒否である。

もし、そんなセリフがどんどん出てくる映画だったら、布団の上で顔を覆いながら、ジタバタ身悶えてしまうに違いない。

そんなものを見たら、一体どんなことになってしまうんだろう。果たして耐えられるだろうか。

どうか、見られる映画であってほしい。

今日は心の準備が出来ないので、見るのはやめよう。見たあとで、気が向いたら、感想でも書きます。

送りたい人生

じゃあ、どんな人生を送りたいのか。

もし、どんな人生でも送れるとしたら、誰のような人生を送りたいか。その質問に対して、男なら多くが坂本竜馬などを答えそうに思える。確かに坂本竜馬は魅力的であるが、僕は自分がそんな器ではないことや、そんなスリリングな生き方を望んでいないことををよく知っている。暗殺されるのもごめんだ。

ならば、どう生きたいのか。端的には、自分らしさ、独特さとかを誇りに持ちながら生きられるのが、僕の理想だ。

憧れるのは、やはり芸術家だ。僧侶とか、学者などにも憧れる。たとえ貧乏でも、好きなことが出来れば気にならない。

むしろ、スナフキンとか、ディオゲネスように、物を持たない人に憧れるくらいだ。とはいえ、満たされた暮らしに慣れてしまった今の僕には、そこまで捨て去ることはできないだろう。

僕の答えは、スヌーピーの作者、シュルツさんである。自分の産んだキャラクターが世界中で愛されているなんて、どれだけ素晴らしいことだろう。マンガ、『ピーナッツ』の内容も、人の心を見つめてきたシュルツさんならではの機微に富んだ、哲学にあふれたものになっていて、すばらしい。

だからといって、マネして同じようなことをしようとしても、うまくはいかないだろう。

結局、自分の表現は自分で見つけるしかない。

そのためには、享楽に逃げずに、自分と向かい合って、いい気分の時も、辛い時も、心を見つめること。その中から表現すべき何かを見つけだすこと。それが僕の使命だと思う。

それをしなければ生きたことにならないように思える。

そのためにも、今はとにかく、もっともっと勉強がしたい。まだまだ、勉強が足りない。

僕の尊敬するいろいろな人たちの、いろいろな作品や考えに触れたい。



そんなことを思って生きてます。

個人的なことばかりですみません。こんなことばかり考えてしまうもので。

寝る前に、いろいろ考えるのだけど、「もし、眠ったあと、そのまま目を覚まさなかったら」とか考えることがあって、そうなったとき、誰も、僕がどんな気持ちで生きているのか知らないまま死ぬのは残念だなあと思ったので、書いてみました。

送りたくない人生

どんな人生を送りたいのか、何をやりたいのか。

それは簡単に答の出る問題ではない。

何がやりたいのかを探しあてるのは大変なことである。

ただ、何をやりたくないかなら、少しはわかる。

以前、母が電話で、どっかの誰か(親戚か、友人の子供か、近所の人かだと思うが、僕には興味のない人物)が、公務員になって、野球チームに入って楽しく過ごしていると、報告してきた。

そして、おまえも同じように安定した職について、野球でもやって、楽しく暮らしたらどうかと言ってきた。

そのとき僕は、公務員になって、休日に野球をやるような人生だけは絶対にイヤだと強く思った。想像しただけで、そんな生き方は人生を棒に振っているようなものだと思った。

ここまではっきりイヤだと思ったのは、人生を考える上で貴重なヒントだった。

ほかにも僕は、「公務員になって野球」ほどではないが、サラリーマンになって、同僚と飲みに行くような人生はイヤだと思っている。

僕が送りたくない人生ランキングを作るとしたら、
1位 公務員になって、休日は野球をする人生
2位 サラリーマンになって、同僚と飲みに行く人生
3位 麻雀や、ギャンブルや、ネットゲームなどに浸った、自堕落な人生

という感じになると思う。

ほかにも、株や円相場など、毎日変動する数字を追いかけ回すような人生も、避けたい人生だ。

ここで重要なのは、3位のような人生も、当然イヤだが、1位2位より3位の方がだいぶましだと感じているということだ。

そのくらい、1位2位になることは避けたいと思っている。

それがなぜなのか、理由を説明するのは野暮ったいのでやめておこう。わかる人には説明しなくてもわかるし、わからない人には説明しても、「ああ、そうなんだ。まあ、そんなもんか」ってなるだけだろうし。

でも、まあ、そこまで言うなら、試しに少しだけ説明するけど、1位2位に対して感じる、どうしようもない可能性のなさがイヤだ。「まあ、それなりに楽しいし、そんな悪い人生じゃないじゃないか」といいながら過ごして、やがて年老いて「幸せな人生だっと」とか綺麗にまとめて死んでしまいそうな感じ。それは僕にとって生きたことにはならないのだ。

「ああ、そうなんだ。まあ、そんなもんか」

ほら。

炊飯器

先日、炊飯器を買った。

炊飯器というのは、お米を炊く以外、何の役にも立たない、あの道具のことだ。

いままで、持っていなかったわけではない。

それまで、家では買ってきたパンか、狩ってきたアザラシが中心だったので、ご飯を食べることが少なく、炊飯器を使う機会がなかった。だから、燃えないゴミの日に捨ててしまったのだ。

それから少しして、お金のことを真剣に考える機会があった。

今まで毎月1万円を貯金していたが、それを倍の2万円に増やすことにした。収入から考えると、エンゲル的にかなり厳しいが。無駄をなくせば、1万円分くらい浮いてくるだろうと踏んだのだ。

そうすると、かなり食費も削る必要が出てくる。そうなると、パンを買うより、ご飯を炊いて、食べない分は冷凍保存の形を取った方が、経済的だし、アザラシを狩るより楽だと気付く。

そこで、一度は手放した炊飯器が、また必要になり、購入に踏み切った次第である。

さて、さっそく、ご飯を炊いてみることに。

無洗米を窯に入れる。あとは、水を入れて、スイッチを押せばいい。

いままで水を入れるときは、面倒だから、計量カップで、窯を本体にセットしたまま注ぎ込んでいたが、今回は、窯の目盛りを使って、直接蛇口から水を入れることにして、内窯を取り外す。

するとびっくり。内窯の下に1枚薄い紙が敷いてある。新品ならではの、保護用の、使用前に外してください的なやつだ。

あぶね。もし内窯を外さずに計量カップで水を入れてスイッチを入れていたら、紙の存在に気づかず、この紙が燃えて、使用1回目にして、新品の炊飯器が煙を吐いて爆発しているところだった。

いや、案外きれいに燃え尽きて大丈夫なのかもしれないけど、いずれにせよ気付いてよかった。

おかげで、今は、ご飯ライフが楽しめている。

幸せ

誰だったか忘れたが、幸せについて

「幸せとは、このままこの時間が永遠に続けばいいのに、と思うような状態のことである」

と定義した人がいたと思う。

なかなか、見事なものだ。

僕にとって、この時間がずっと続けばいいのにと思う時間は、夜、寝ようと布団に入った時である。

寝入るまでの時間に、とりとめもないことを考えるのが好きなのだ。

僕の城と言うべき架空の建物を歩いたり、脳内秘書や軍師と会話をしたりする。これがなんとも楽しい時間だ。

しかし、いつも、途中で寝てしまうので、何の結論も出ないし、結末も訪れない。

もっと長く時間を取れば、何か新しい展開があるかもしれない。脳内軍師に相談を持ちかければ、思いもよらない解決方法を教えてくれるかもしれない。

試しに、昨日夜7時半に布団に入ってみることにした。

すぐ寝つけた。

その後、何度か目が覚めたが、結局、朝10時半に起きた。

まあ、たくさん寝られて、睡眠欲がすごく満たされた気持ちにはなった。

新たな目標

この季節たくさんのコバエが発生する。

ゴミ箱にバナナの皮を放りこんでおいただけで、そこからたくさんコバエが生まれる。

もう気持ち悪い。

これは早いところ、気にしないようにしなければと、さっそくアマゾンで「コバエがたくさんいてもあまり気にしない力を鍛える方法」みたいな本を探したけど、見つからなかった。

しかし、ここは発想を変えて、コバエをなるべく発生させないように努力することにする。まさに逆転の発想だ。

生ごみなどはゴミ袋に入れて、袋をしっかり縛って密封して、早めに処分を心がける。流しの中も毎日掃除をする。

今年の夏はコバエを発生させないことが目標だ。

なんでもいいから書いてみるか

時間が経つほど、僕がバスが嫌いという印象が強くなりそうな気がして仕方ないのだけど、別にそれほどじゃない。

というわけで、前回の更新から、少し(たぶん2~3週間くらい)時間があいてしまったようだ。いつものうっかりである。心配しないでほしい。もしくはすごく心配してほしい。

その間、主に何をしていたかと言えば、竹下佳江のことを考えていた。

竹下佳江さんはバレーボールの選手である。日本代表チームでセッターを務める、あのちっちゃい人だ。別に僕はバレーボールファンでもなければ、竹下ファンでもない。

でも、たまたま日本の試合をテレビで見たとき、他の国ではなく、日本を応援したくなる一番の理由は、僕が日本人であること以上に、この人の存在なのではないかと思ったのだ。

竹下選手は明らかに小さい。周りの選手たちが2~3メートルあるのが普通という中、竹下選手は159センチ。そんな人が、世界で最も優秀なセッターと呼ばれ、日本チームにいることが、妙に誇らしく思える。

他のスポーツもそうだけど、日本人選手は体格的に小さい場合が多く、そんな中、ひたむきな努力によって技術を磨き、恵まれた体を持つ外国の選手と勝負している印象が強い。

それ自体がすごく感動的なことだし、日本のいいところ、誇りに思えるところだ。

いまさらながら、竹下選手を見たとき、まさにその象徴のように思えた。僕にとって、天皇も日本の象徴だが、竹下も日本の象徴である。

今まで、いるのが当たり前だと思っていたけど、竹下選手とて、いつまでも現役と言うわけにはいかないと思うと、急にありがたく思えてきた。

バレーボールは番組の作りが、ジャニーズの誰かが応援団だったり、選手にキャッチコピーやニックネームをつけて、アイドルみたいな扱いにしたり、なんかうわついてて好きじゃないから、見ないことが多かったけど、オリンピックはテレビで応援してみようかと思った。

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