新しいメガネを買ったこと

弱点の話を、最近していたけど、僕にも強い部分くらいある。

新しいメガネを買ってみた。これから頑張るので、そのご褒美である。

メガネ屋さんで選んだときは、いい感じだと思ったのだが、家に帰ってきてかけてみたら、「あれ?なんか違う」。すごい違和感。店で試着したときと、家でかけてみた時、全然違って見える。

妙に目が小さい。

どうやら、度が入ることによって、目が小さく見えるようになってしまったようだ。

近視用のメガネだと、顔の輪郭はくぼんだ感じになる。つまり、メガネの奥はちょっと小さく見えるのだ。

近視メガネをお持ちの方は試してみればよくわかると思うが、顔からレンズを離すほど、目は小さくなっていく。

今回買ったメガネが、前のと比べて、ブリッジというか、鼻にあてる部分が高くなっていて、その分、顔から離れたために、かけたとき、僕の目は小さくなってしまう。ましてや、僕の度は強いのだ。より小さく見えるのだろう。(そう、僕の強い部分、メガネの度。)

今回、そんなことまで考えずに買ってしまった。

ちなみに、デザインは、マヌケ面をすこしでも、しまって見せるように、ちょっと角ばった形、知性を引き立たせるため、ふちはすこし細め、しかしおしゃれさ、カジュアルさの演出のため、サイドがやや太めのフレーム。あまり冒険しすぎると後悔するだろうということと、草食系メガネ男子っぽくも見えるということで、色は黒にした。

本当にやろうかな、いつかどこかで

前回の気持ち悪いものの件だけど、アニメのワンピースで、ルフィの「ゴムゴムの風船」で膨らませた体に、たくさん大砲とか、鉄砲の弾がめり込んでるところとかも気持ち悪いんだよね。

何か黒いものがたくさんめり込んでると気持ち悪いんだな。たとえば、餅とかにBB弾をたくさん、深めにめり込ませたら、だいぶ気持ち悪いものが出来あがりそう。

う~ん。「気持ち悪いもの展」の構想が膨らむなあ。

気持ち悪いもの展

自分の弱点をさらけ出せる人は素敵だと聞いたことがある。

昨日の喉の話以外にも、僕には弱点があるんじゃないかと考えてみた。これは、弱点と言えるのか。誰でもそうかもしれないけど、タピオカのたくさん入ったココナッツミルクをじっと見てるとすごく気持ち悪いよね。鳥肌がたつ。「タピオカ」で画像検索したりすると、そういうのが結構出てくる。

他にもこの感じを味わおうと思ったら、黒ゴマをたくさん器にいれて、そこに牛乳をちょこっとかけてみれば、気持ち悪いものが出来上がる。黒ゴマだけなら大丈夫でも、牛乳をかけるだけであんなことになってしまうなんて。

なぜなのだろうか、やはり、黒くて小さい粒状のものは虫(蟲)を連想させるから、人類はそれに不快感を持つように進化したのだろうか。黒い粒でも、きれいな水玉もようの配列なら大丈夫なのに、不規則だと相当気持ち悪いんだよね。

あと、先が二つに割れてたりして、変な形のいちごの、くぼんでる部分の種の配列をよく見てみると、これも気持ち悪いよ。密集してるの。種が。ぎっしりと。で、一個一個に毛みたいなのが生えてる・・・・・・。

シダ植物の裏にくっついてる胞子もすごく気持ち悪い。中学くらいの理科の資料集に写真載ってた。

なんか、将来、そういう気持ち悪い模様とか写真をたくさん集めて展覧会を開きたい気がする。「いやだ~きもちわる~い」などと言いながら、結構多くの人が怖いもの見たさで集まりそうな気がする。もちろん、本当に気持ち悪いのは展示しない。ゴキブリの大群とか。腐った食べ物とか。そういうことじゃなくて、「なんでこの模様こんな気持ち悪く感じるんだろう?」って思うようなものをたくさん飾る。当然売店ではタピオカジュースを売る。

喉と声

自分の弱点をさらけだせる人は素敵だと、聞いたことがある。

僕の弱点の一つに「喉の話に弱い」というのがある。喉。咽。のど。表記の仕方はいろいろあるが「喉」にしておこう。

喉の異常や病気の話にはすごくストレスを感じてしまう。喉は繊細な場所というイメージがあるからなのだろうか。同じ体の一部なのに、喉、特に声帯には、明らかに他とは違う特別な感情を抱いてしまう。

例えば「喉から血が出る」は「肘から血が出る」の10倍くらい怖い。「喉にポリープができた」ときくと「胃にポリープが出来た」の3倍くらい、「足の裏にポリープが出来た」の15倍くらい重症に思えてくる。「歌手が喉のポリープの手術をした」というニュースを聞いた時も、血の気が引いていくような感じがした。

もんたよしのりさんが、ハスキーボイスを獲得するために、大声で叫び続けて、声を潰した話を聞いたときも、こちらが大声で叫びたくなるくらい、不快感があった。もちろん「声を潰した」という話にたいして、なぜか感じた不快感で、声に対する不快感ではない。

朴璐美さんが鋼の錬金術師エドワード・エルリックを演じる際、声をわざと潰して臨んだというエピソードを聞いた時も凄くストレスを感じた。「戻らなくなっちゃったらどうするんだよ」とも思った。

「トリビアの泉」で、少年が声変わりする瞬間をとらえたレコードがあるといった内容のトリビアが紹介されたことがあった。声変わりが起こる前後に歌を歌って、それを記録したものだったのだが、最初に声が変わる前の、子どもの声が出てきて、その段階でかなりの胸騒ぎがした。案の定そこから、日付けが先に進んでいく。明らかに変わっていく声。ストレスで悶絶し、気がおかしくなりそうだった。「もうやめてくれー」と叫びたかった。そんな状態で歌を歌わせるなんて酷い、人間のやることじゃないと思った。

こうして書き出してみると、喉というより「声」に対して弱いのかもしれない。強い不快感が先立つので、理由は分からないが、声には、顔のように、その人自身を示す重要な役割があるから、無くなったり、変わったりすることに抵抗を覚えるのかもしれない。

喉や声の話に不快感を感じるのは、僕だけじゃないだろうけど、僕はかなり重症の部類に入る気がする。

思い出

今年から、物を減らずために、毎日10個ずつ何か捨てていくことにしている。

それを100日続けようとしているが、2月も半ばを過ぎ、ようやく半分まで来た。

ここまで来ると、明らかに要らないものはほとんどなく、だいぶ、苦しくなってきた。捨てるべきか迷うものも多くなってくる。やはり、迷うのは、使う使わないではなく、思い出のあるものだ。

それが、ビデオテープ。学生時代に出演した、演奏会を撮影したものがある。記念に持ってはいるが、一度くらいしか見ていないし、これからも見ないだろう。そもそも、その頃の演奏の仕方はかなり不格好で、もう見たくない。

でも、遠い将来、見たくなる日も来るかもしれない。年をとって、人生を振り返りたくなる時もくるかもしれないし。VHSという媒体自体古いので、テープはどのみち捨てるとして、捨てる前に一応DVDに残しておくべきだろうか。

DVDにダビングしてもらうサービスもあるが、結構高い。自分でやるのも大変そうだし、よくわからない。

そこまでして、思い出を形として残す必要はあるのだろうか。

思い出を残すことは、それほど大切なのだろうか。

昨日、写真の話なんかしたけど、なんでそんな話になったと言えば、このことに直面したからだ。

人にとって、思い出とはなんなのだろう。お金をいくら貯めても、それを持って天国には行けないというが、思い出もまた同じではないだろうか。確かに写真を見ることで、その時の気持ちを思い出したりするだろうが、それが一体何になるのだろう。

写真やビデオが残っていなくても、僕本人はいる。

過去の記録を見て「この時はよかった」などと言っても、もうその時の僕はいない。

思い出は、過去から自分の足を引っ張る足かせに過ぎないのではないかとも思えてくる。

きっぱり捨ててしまうのもありかもな。

でもなあ、一応もう少しとっておこうかな。

写真

多くの人が、日ごろから、写真などを撮っているが、一体何のためにやっているのだろう。

みんな写真で自分の姿を見るのがイヤじゃないのだろうか。

僕の場合、自分の写真はほとんど残っていない。友達がいなかったので、撮ってもらう機会もなかったし、人の写真を撮るのも「撮っていいですか?」などと聞けなかったので、ほとんど撮っていない。だから、僕の手元には一人で出かけた時に撮った、建物や風景、実家のふすま、完成したパズルなど、人物の写っていない写真がわずかにあるだけだ。

保育園児だったころ、僕はほぼ100パーセントの確率で、集合写真を撮られるとき、目をつぶっていた。日光に弱いため、まぶしさに耐えられなかったのだろう。なぜ、写真を撮るとき、まぶしい方をいつも向かされるのかと、腹が立って仕方なかった。

いつも同級生から「また目つぶってる~」と冷やかされていた。それが悔しくて、次こそはと思っていると、眉毛だけ一生懸命に上げながら目をつぶった僕の顔が現像されて出来あがってくる。

「あ、俺また目つぶってる、ははは」と無理におどけてみせたが、心の中は、そうしている自分に対しても、悲しさと悔しさでいっぱいだった。

小学校の卒業写真は、かろうじて半目を開けているが、広げようという意識が、鼻の穴にまで及んでいる。

写真で見る僕はいつも醜く、人の目にはこんな風に見えているのかと落ち込み、なぜ、みんなこんな醜い人間に対して、やさしくしてくれるのか理解に苦しんだ。それは、突き詰めれば、美しいものばかりを愛そうとする自分の醜い心の投影、映し鏡でもあって、何にせよ、見れば見るほど、自信をなくすものでしかない。

僕にとって、自分の写真を見ることは、自分の醜さを確認するためのものでしかないように思え、これまで積極的に残したりしなかったし、これからも、焼いた餅がぷくーっと膨らんでいるところの写真以外撮らないことにしようかとも思うほどだ。

だから、たくさんの写真を撮る人というのは、どういう気持ちで撮っているのか、想像しがたい。思い出に浸るのが好きなのだろうか。やはり、誰かと出かけても、気疲ればかりで心から楽しんだことのない僕と違って、「この時は楽しかった」と言える思い出がたくさんあるのだろうか。自信があるのだろうか、幸せなのだろうか。いずれにしても僕とはちょっと違う性質を持っている人に見える(僕の方が少数派なのだろうけど)。

そう考えると、人を見るとき、その人が、写真が好きかどうかという点で見ると、その人を、特に自意識とか自信の部分を知る手掛かりになりそうな気がする。

第2の人生

いま、気になっていることを、3時間くらいかけて書きだしてみるといいよと、ものの本に書いてあった。3時間は長いと思われるかもしれないが、そのくらいかけて、どんな些細なことも洗いざらい出しきってしまうのがいいらしい。

ということで、昨日、早速やってみた。

出てくる出てくる。

箇条書きのような感じで書きだして、ノート10ページ分、一気に書いた。こんなにやりたいこと、いっぱいあったんだなあ。

かなり頭がすっきりしたし、今やるべきことも明確になった気がする。

最終的には10年後、20年後、30年後の自分の生き方や、目標にまで考えが及んでいた。

40代、50代になったら、仕事の片手間でもいいから、第2の人生として、音楽家になろう。

子どもの頃、ピアノを習っていたが、ピアノの先生からは、演奏よりも、楽譜に対する理解が早く、こんなに飲みこみが早い子はいないとまで褒められ、作曲などに向いているのではと言われていた。

人間、褒められたことは忘れないものである。先生が演奏に対するフォローとして言ったことも、「そういえば俺、作曲の天才だった」くらいの解釈で今でも覚えているのだ。僕の中では、僕が作曲の天才であることは真実になってしまっている。

その才能を寝かせておくのはもったいない。作曲を学び、それに必要な程度のピアノを身につける。演奏家としては、中途半端にやったバイオリンをちゃんと弾けるようにしたい。

名探偵コナンのテーマとか、古畑任三郎のテーマとか、インディージョーンズのテーマとか、ウォレスとグルミットのテーマのような、何かのテーマ曲を思わせるような、聴けばそれとわかるような、口ずさんでしまうような曲を僕も作ってみたい。自分で演奏することを考えて、バイオリンを中心とした曲がいい。作詞をして、歌を作るのも面白そうだ。ピアノ弾き語りで歌う。ちなみにギターは意地でもやらない。

そのためには30代でお金をためて、40くらいになったら、音楽の出来る家に住むことにしよう。

と、そんな第2の人生への現実逃避もできて、3時間かけて、頭の中の気になることを全部書きだす作業はとても有意義だった。

さて、第1の人生(現実)に戻るとするか。

バイキング

バイキングっていいよね。

特に朝食バイキング。

朝食バイキングでどう立ち振舞うかを考えるだけで、楽しい時間が過ごせる。渋滞に巻き込まれたときとか、行列に並んでいるとき、蔵に閉じ込められたときなどは、朝食バイキングのことを考えればいいと思う。

まず、軽くもりつけたご飯に、味噌汁に、ハムエッグ、ソーセージ、鮭の切り身、味付けのり、サラダ。あとは、ひじきの煮物等を適当に。

食べ終わったら、今度はバターロールとクロワッサンを2~3個と、フルーツ&ヨーグルト、そしてコーヒーを持って来る。

それも食べ終わったら、最後のしめにもう一杯コーヒー。これが僕の理想。これならバイキングでなくてもよさそうだけど、バイキングならではの楽しさってあるし。

ファミレスのココスで朝食バイキングをやっている店舗もあるらしい。残念ながら、うちの近くにはない。

ココス以外で、低価格で朝食のバイキングとかやってる店ってあまりないよね。残っちゃってもったいないとか、いろいろ難しいのかな。残ったやつでお弁当を作るとか、うまくやれば、ビジネスチャンスにならないかな。朝はバイキング屋で、昼はお弁当屋とか。僕はビジネスに興味がないからやらないけど。

模様替えの成果

昨日、模様替えをした。いつも寝ているロフトの上を中心に改善した。

前回、早起きピッチングの話をしたが、早起きの習慣というのはなかなか身に付かないもので、未だに早起きは成功、失敗入り乱れ、不安定な状態。すっきり目覚めるための、試行錯誤の日々が続いている。

僕の場合、特に睡眠障害があるわけではない。起きようと思えば起きられるはずなのに、意思が弱く、ちょっと辛いだけでも耐えられないため、目覚ましが鳴っても、止めてまた寝てしまうという二度寝、三度寝タイプの起きられない人だ。だから、ちょっとのコツで改善されるような気がする。

毎日のことなので、爆音の目覚まし時計が鳴るや、飛び出るパンチグローブで顔面を殴られた後、ベッドがダンプの荷台みたいな動きで起き上がり、頭から水に落とされるといったような、強制的で無理やりな起こされ方は嫌だ。なるべくストレスがかからず、気持ちよく自発的に起きられる方法を探している。

朝、光を浴びると、目がさめやすく、起きやすいというので、今回の模様替えで、電気スタンドを、寝床付近に置くようにした。

タッチセンサーで点くやつなので、アラームをセンサーの部分のそばに置いておいて、アラームを止めると、ライトがつくという仕組みを作ってみた。

今朝、試してみたら、結構うまくいった。ただ、初日は新しいことを始めたわくわくもあり、うまくいって当然とも言えるので、今後の経過を見てみないと、有効な方法と言いきるのは早い。

これまでも、ずっとやっているのは、起きたい時間の30分くらい前からタイマーで、小さめの音でCDを再生するという方法。眠りが浅くなってきたころ、耳に入ってくるくらいの音量がいいらしい。どんな曲を流したとき、目覚めやすいのか実験している。

僕の好きなクラシックの曲や、ミスチル、ウルフルズ、ELT、倉木麻衣、真心ブラザーズの曲などいろいろ試してみた。結果、分かったのは静かすぎても、うるさすぎてもうまくいかないことだ。静かだと起きる気にならないし、うるさいと「うるさいな!」とすぐ止めてしまうからだ。

これまでのところ、BoAのベストアルバムを流したとき、起きられる確率が高いことが分かっており、ダンスミュージック的な、アップテンポで、ちょっと気分を盛り上げてくれるものがいいのかもしれないという仮説が立っている。

そこで、Perfumeの「JPN」というアルバムをしばらく試すことにした。短いオープニングのあと、「レーザービーム」という、脳波が踊りだしそうな曲が入っていて、朝の目覚めにはよさそうだと手ごたえを感じている。別にPerfumeのファンではないのだが、朝起こしてくれるからという理由でこれからファンになってしまうかもしれない。

アイデアマラソン

樋口健夫さんという人が提唱した、「アイデアマラソン」というものがあると知り、さっそくその本を読んでいる。

毎日ノートにアイデアを書きためていこうというものなのだが、この「アイデアマラソン」というネーミングも、内容もいかにも僕が考えそうなことだ。

実際、これに近いことをやろうとしたことは何度もある。毎日1ページ何か書くぞと意気込んで、新しいノートを買ってきては、3ページくらい書いてあとは白紙のノートを何冊も作ってきた。

僕の三日住職ぶりとは違い、樋口さんは毎日ノートにアイデアを最低1個書くという習慣を30年以上続けていて、ノートは300冊以上たまっているらしく、そういう、目に見える形で蓄積されているものがあるというのが、実にうらやましい。

僕の場合、思いついたアイデアはEVERNOTEに記録しているので、同じやり方で「アイデアマラソン」はやらないが、パソコンだけではアイデアのまとめや、ブレインストーミングには不向きだと思い、アナログのノートも併用していたので、これからはそのノートも、しっかり保存しておけるような、厚めのしっかりしたやつにすることにした。

「アイデアマラソン」はいかにも僕が考えそうなことだと言ったが、過去には「生活習慣スタンプラリーシステム」とか、「自分にご褒美ポイント制度」などを勝手に作って、やり始めてはすぐに飽きてやめるを繰り返してきたため、そんなことを感じたのだろう。

一番最近考えたのは「早起きピッチング」だ。これももう1週間くらいかけて、システムを作り上げたが、6日持たずに終了した企画だ。これは、つまり、なかなか早起きの習慣が身に付かないので、モチベーションアップのため、1カ月を1シーズンとして早起きができたら1勝、出来なかったら1敗とし、ピッチャーとしてダルビッシュや田中の記録に挑もうというものだった。

単純にそれだけなら、続いたかもしれないが、僕はそこでなぜか防御率においてもダルビッシュやまーくんと張り合いたいと思ってしまい、読書や執筆の量に応じて、防御率が上下するというルールと、その計算式なども作ってしまったために、すぐ面倒くさくなって辞めてしまった。結局、1軍登板すらほとんど出来なかったということになる。

結論として、やっぱりダルビッシュやまーくんはすごいんだということがよくわかった。

一見、僕が考えそうな「アイデアマラソン」だが、もし僕が考えるとしたら、それに加えてゴールの設定や給水ポイント(ここまできたらおいしいものが食べられるなど)の設定なども行ってしまうのだろう。そのうえで、マラソンコースマップを作って、現在地がどこかわかるようにフィギュアを置いたりしてしまうのだと思う。そして、いつものことながら、すぐ飽きてやめてしまうのだろう。

やる前からそれが分かるようになったので、そういう意味では僕も成長したと思う。昔の僕なら「俺の考えた『アイデアマラソン』の方が絶対面白いぜ」とか鼻息を荒くしていただろう。恥ずかしいことだ。

テンション

テンションが高いとか低いとかいうが、僕ももっとハイテンションな人間になれないものかと、思うことがある。憧れもする。

アンタッチャブルのザキヤマさんとか面白いと思うが、「からの~?」とかを、まねて言うことは、僕にとってかなり難しいことに最近気づいた。

「からの~?」を面白い感じに言うには、ザキヤマさんみたいに、常に高いテンションでしゃべっていないと難しいわけで、常に暗くて、テンションが低い落ちついた雰囲気が魅力の僕にとって、マネするのが難しいのも当然かもしれない。

今でこそ、草刈正雄のように落ちついた雰囲気の僕も、子どもの頃は、自然にテンションが高かった。家でクリスマスを祝った時、フライドチキンなどの豪華料理が並び、楽しくて、大はしゃぎで箸を両手に持ったまま走り回っていたほどだ。

その時、手に持っていた箸が、はしゃいで、ぶんぶん腕を上下した拍子に、鼻の穴に突き刺さり、大量の鼻血が噴き出して以来、僕はすっかり笑わない子になってしまった。

そんなわけで、今の僕では、いくら憧れようと、自然に高いテンションにはなりそうにない。そう見えるように演技するための演技力を身に付けるくらいしか出来ないのである。

演技の勉強をもっとして、幅広く自分を表現できるようにしておきたいものだ。

もっと自由に

映画を100本観ようと決めてから、さっそくたくさん観ている。

例えば、昨日は『RAILWEYS』という映画を観た。感動的な、すごくいい映画だった。なにしろ中井貴一が出てきて、怒ったり、笑ったり、語ったりするのだ。よくないはずがない。あと、電車を運転したりもする。感動しないわけがない。

ツタヤさんでは、映画もたくさん借りているし、マンガもちょくちょく借りている。相変わらず、アマゾンやブックオフで本もたくさん買っている。最近は、手当たり次第に、借りたり買ったりしていて、自分でもなんだかわからなくなってきている。何を優先するべきなのかもわからない。

でも、今は、あえて欲望と自然に任せてみようかと思う。そうすることで、本当に自分がしたいこと、好きなことは何なのか、もう少しわかってくるかもしれない。自分の心を観察しながら、好き勝手やってみようと思う。

いままで、自分を規制しようとしすぎてきた。計画的に考えて、努力しないとだめだと、自分を戒めてきたけど、もっと、勝手にやらせてみようと思う。それが最近、急に浮かび上がってきた考え方だ。

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