ロンドンオリンピック開催

暑さとオリンピックのせいで、ここ数日、寝不足であるが、そんなに体調は悪くない。ちゃんと立って歩くことも出来ている。

体重もどんどん減っている。この機に、ライトフライ級まで階級を下げようかと思うほどだ。このままどんどん減っていくと、あと20年ちょっとで0になるペースである。でも、この季節、体重が落ちるのは毎年のことなので心配いらない。冬になると、また増えるだろう。

それにしても、オリンピック、見ちゃうね。オリンピックを見たところで、僕に何が出来るわけでもないし、見ないで勉強でもしてた方が、僕にとってプラスになりそうだけど、真剣に闘っている選手たちの姿には、どうしても引き込まれてしまうものがある。

体操は特に力が入る。体操選手たちの筋肉を見ていると、単純だが、筋トレをしたくなってしまう。肌の白さなら内村選手にも負けていないし、何とかなるのではないかと思ってしまう。あれくらい筋肉ついてたら、だいぶ世界が変わるだろうな。

あと、柔道。選手の動きを見ていると、みんな結構その場でぴょんぴょん跳んでるなと思った。あれはやっぱり大事なのかな。今大会、何かと物議をかもしている「ジュリー」の制度について、沢田研二とかけたギャグを言う芸人が出てきそうだが、誰でも思いつくやつなので、言わないほうが正解だろうな。

そんな中、チャンネル変えてみたら、『ほこ×たて』やってた。オリンピック開催中の『ほこ×たて』の対決はすごく、どうでもよく見えるね。

鶴岡雅義と東京ロマンチカの

『小樽のひとよ』という歌

 逢いたい気持ちが ままならぬ

で始まる、あの歌だけど。歌い進めていくと

 粉雪舞い散る 小樽の駅に
 正義のパンチをぶちかませ

と、途中からタイガーマスクのテーマに変わっちゃうんだよね。小樽の駅に恨みがあるのかな。

『あしたのジョー』の主題歌も

 サンド~ バッグのジャングルに

と、また途中でタイガーマスクになっちゃう(「サンド」まではジョー、「バッグ」からはタイガーマスクのメロディーで)。

もう!タイガーマスクの汎用性!

もしも

たとえば、飛行機とか、船の事故があって、海を漂流したのち、何とか無人島にたどり着いて、一命を取りとめたとしよう。

これから無人島でのサバイバルが待っているのかなあ? なんて状態になったとしよう。

そうしたら、少しして、同じ事故に遭った人が、もう一人あとから、島に流れ着いて来た。

さて、その人が、どんな人だったら嬉しいだろうか?

別に心理テストじゃないよ。

僕としては、行動的で主導権を取ろうとする人より、思慮深くて、相談しやすい人がいいかな。

逆に、流れ着いて来たのが、どんな人だったら嫌かといえば、一番嫌なのは、間違いなくハンニバル・レクター博士である。

足を運ぶ

「こんなところまで足を運んでくださってありがとうございます」

なんてよく言うけど、どちらかと言えば、足の方が体を運んでいるような気がするよね。

スムーズ

「スムーズに会社を辞めることができた」というときなどによく使う「スムーズ」。

この「スムーズ」のことを、「スムース」と言ったり、書いたりする人が多い。

辞書で「スムース」を引くと「スムーズの訛り」と出ていた。つまり間違いではないにせよ、「スムーズ」の方が、より日本語としてあるべき姿なのである。

英語で書くと「Smooth」。「th」だから「ス」と読みたい気持ちは分かるが、この場合、英語本来の発音も「スムーズ」に近いのだという。

それを知ってから、本を読んでいるとき「スムース」と書いてあるのを見る度に、なんだか「気取ってんじゃねーよ」と腹立たしい気持ちになる。

それに、スムースというと、どうしても酢をかけたムースを連想してしまうではないか。

だから、スムースという言い方をする人に対しては、酢をかけたムースを食べさせて「あなたの言っているのはこれですよ、これがスムースですよ、スムーズには食べられないでしょ?」と教えてあげた方がいいのではないかと思う。

昨日のアリバイ

こちらは暑いものだという心構えをしているのに、涼しいので逆に調子が悪くなる。

速いストレートを何球か見せられた後、急にチェンジアップとか来るとタイミング外されて全く打てないのと同じだな。

さて、昨夜、お腹が痒いと思って見てみたら、虫に刺されていた。蚊かと思ったが、違う虫のようだ。ダニか何かだろう。ムヒを塗っておく。

そのあと風呂に入ることにする。せっかくムヒを塗ったのに、すぐ風呂という計画性のなさには、我ながらがっかりである。

風呂に入る前、コンタクトレンズを外していないことに気づいて、外すことに。

そうしたらなぜか、目に激痛が。

そうだ、さっきムヒを塗った手でコンタクトを外そうとしていた。軽く手は洗ったが、十分ではなかったらしい。

その場で涙を流しながら悶える。

気を取り直して、もう一度しっかり手を洗い、先にもう片方のコンタクトを外す。

余談だが、コンタクトは入れるときも外す時も左からと決めている。左右とも度数は同じなので、ケースに入れるとき、気にしなくていいのが便利だ。

そして、もう一度、さっき痛くなった左目のコンタクトを外しにかかる。

なかなか外れない。おかしいなと思ったら、案の定、最初の段階で、コンタクトは外れて、下に落っこちていた。

気付かず、眼球を取り外そうとしていた。また涙が出てきた。

ブログに日記を書くという、新しい発想

日記を書く習慣がないのだが、適度に自分の行動を記録しておきたくなった。記録しておかないと、すぐ忘れてしまうので、アリバイを聞かれたときとかに、疑われてしまう。

ブログに日記を書くのは、秘密にしたいこともあるし、本性がバレそうだし、いろいろ都合が悪いのだが、書ける範囲で書いていこう。

天野こずえ先生のマンガ『ARIA』を全巻、大人買いした。

そんなことを聞かれることはまずないのだが、そして実際に聞かれたら無視するかもしれないが、どんな雰囲気の世界が好きかと聞かれたときに、真っ先にこのマンガを挙げたくなるような美しい世界観。僕が創作家として作り出したい世界の目標の一つ。僕には、こういう想像力は一生手に入らないのかもしれないと不安にもなる程の作品だ。男のくせに、これが好きというあたりが、僕の孤独を裏付けている気がする。つまり、大抵の男とは趣味が合わず、女はそれ以上に理解しがたいのだ。

なぜいままで持っていなかったのかといえば、好きではない部分もあるから(なんか恥ずかしくなってくるところとか、盛り上がりがなさすぎるところとか)なのだけど、ちゃんと全部読んだことがなかったので、読んでみようかなと、情熱がわき出して、レンタル屋さんのコミックレンタルコーナーに行くも、置いてなくてがっかり事件が発生。しばらくは途方に暮れていたが、あきらめきれず、中古のコミックセットを注文。

これが昨日のこと。これでアリバイ成立だな。僕はやってません。

呼吸

人は鼻か口から息をする。

逆にいえば、口と鼻をふさがれてしまうと、息が出来なくなってしまうということだ。

口と鼻はわりと近い位置にある。ふさごうと思えば、指3本でできるかもしれない配置だ。

手で口と鼻をふさがれるという方法で殺された人もいるかもしれない。

もし息が出来なくなったら、すごく苦しいだろう。そして、とても、もどかしいだろう。こんな簡単にふさげる、さほど大きくもない穴をふさがれただけで、こんなにも苦しいなんてと。もう一個だけでも、どこかに抜け穴があればなあと思うだろう。

そういう意味では、息をするのが口と鼻だけというのは、なんとなく心もとない。

緊急時だけでも、耳で息が出来る仕組みになってればいいのに。空気が、長時間、鼻や口から出られないとき、非常事態発生ということになって、サイレンが鳴る。すると、緑のマークの非常口がおごそかに開き、空気たちは、「おい、みんな、あっちだ」って感じで、耳の方に行けるようになるのだ。そのまま空気たちは、鼓膜をパカッと開けて出入りする。

耳は鼓膜が戻るまで聞こえなくなるし、ばい菌が入って耳の病気にかかりやすくもなる。でも、命は助かる。これで、万が一、口と鼻が同時にふさがっても安心だ。

そうすると、わざと口と鼻をふさいで、耳ですごくうまく笛を吹く人とかが現れたりするのかな。

くだもの

くだものってすごくね?

あんなお手軽な食べ物が普通に木になってるんだよ。

昨今、肉じゃがとか、たまごやきとか、調理済みの食べ物がパックに入って売られていて、すぐ食べられるようになっていて、便利になったものだと思うが、作ってる方は、傷まないような工夫や努力も積み重ね、工場で大掛かりな機械を使ったりして、相当な数の工程をふんでいるはずだ。

すぐ簡単に食べられるって、人間がこれほど努力してやっていることなのに、くだものはもいで食べるだけ。

ほとんど、調理不要で、そのまま食べられるんだよ。りんごとかならそのままいけるし、バナナや、みかんなら皮むくくらいで食べられる。甘くておいしくて、栄養も豊富。

なんて都合がいいんだろう。至れり尽くせりだ。

か?

『8 1/2』は「ハッカニブンノイチ」って読むけどさ。

「カ」ってなんだよ。「か」って。いや、昔の読み方なのは知ってるけど。うちの親はそう読む世代だし。

「ハチとニブンノイチ」と読むならわかる。「と」はわかる。「トムとジェリー」の「と」、「罪と罰」の「と」、「倫理学における形式主義と実質的価値倫理学」の「と」と同じ「と」だ。

でも「か」ってなんだ? 「のるかそるか」の「か」ではないだろ。 「加」? 「過」? 「科」? 「家」? 

ひねくれ者

「命は大切」と、何千何万回言われるより、一度でも「あなたが大切」と誰かに言われれば、それだけで生きていける、みたいなコマーシャルが昔あったと思う。

僕はとてもひねくれているので、そんなのわからないじゃんと言いたくなってしまう。

何千何万ということなので、仮に1万回として、何かの集会で、強制的に1万回「命は大切」と、聞かされ続けることになったとしよう。もちろんそれは、大勢に向けて発せられた言葉で、ひょっとしたら、たいして心もこもっていないものだとしよう。だとしても、1万回は何日かかるかわからないほどの相当な数である。聞いているうちに、マインドコントロール的な効果で、1回だけ「あなたが大切」と言われただけの人より、命の重さ、大切さを強く認識したり、感じたりして、自分の命も、誰かの命も大切にしようと思うようになっても不思議ではない。「自分はツイている」と言い聞かせていると、脳はその理由を勝手に探す。だから普段から、自分に対して、よい言葉を投げかけることが、大事だとよく言われている。1万回の「命は大切」でも同じようなことがあるのではないか。

実際、試したわけではないし、そんな集会には参加したくないけど、可能性は十分だと思う。

「そんな屁理屈を。あのコマーシャルのコピーだって、実際に1万回言われる場合と比べてどうこうってわけじゃないだろ、意図をちゃんと汲み取れよ」と思うかもしれない。

もちろん分かっているけど、僕としては、どうも「これが正しいんだぜ」と言わんばかりに道徳的な事柄を説かれると、必ずしもそうではないことを示したくなる。簡単に「そうですよねえ、いい言葉ですねえ」と納得するのは、なんだか悔しい。断定的に言われるほどその気持ちは強くなる。正しさなんて、絶対的じゃないのだから、すぐに決めつけてかかる人とか、自分こそは正しいんだと思い込んで生きている人への警戒心が強いのだ。自分で考えてから納得したい。

そのためには、方法的懐疑ということで、いったんその言葉を疑う。

その結果、今回のように、的外れにも見える反論も出てくるのだが。

恐怖映画『君に届け』の感想

前回、恐怖映画『君に届け』の感想を書くと言ってしまったので、気は進まないが書いてみよう。他にもいろいろ映画を見ているので、この作品にだけ触れるのも変なのだが、まあ、乗りかかった船ということで。

やはり、恐怖映画であった。

いきなり、シャイな男の僕には耐えがたい、桜の花びらを使った、目を覆いたくなるような惨劇から始まった。

さらにその後も、なぜか自分のことよりも主人公・爽子のことばかり考えて話題にしたがるクラスメートたち、体育館で真田と話している爽子の手を引っ張って、むりやり連れ出す風早の奇行、など、現実にはあり得ない異常空間。

本来もっと複雑なはずの人の心と行動のつながりを、わかりやすく描いているととらえれば、この異常空間も説明がつくかもしれない。

この世界に浸ってストレートに楽しむのは、大方、やはり少女マンガの読者層なのだろう。

それを外から見ながら、マンガだなあ、そんなことあるわけないじゃんなどとツッコみながらも、それも含めて面白がりながら見ている人も多いのではないかと思う。僕はと言えば、それすら外から見ている感じだろうか。

それでも、作者の伝えんとすることや、これがストレートに好きだと言う人の気持ちはよくわかるし、その気持ち自体、人間らしくて愛おしい。2~3か所くらい泣いたし。いい勉強になった。

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