ブログ引っ越します。

ちょうど、区切りもいいので、4月からブログを新しくすることにしました。

新しいブログは「blogger」で作ります。

「ナカイユウヒの世界展」というタイトルです。

僕の理想のブログは、ふらりと立ち寄れる茶屋のような、かつ、変なものがおいてある古道具屋のようなブログだと前に言いました。

我ながら言い得て妙です。ほんとにそんな感じにしたいです。そういうコンセプトのブログがうまいこと作れないものか、悩みました。

「ナカイユウヒ古道具店」とかだと、本当に古道具屋さんのブログみたいになってしまうし。

考えた結果、その感じに近いのは「ギャラリー」だなと思い至りました。

絵画とか飾っておいて、自由に入って見てもらって、気に入った絵を買ってもらう。カフェスペースもあったりする。そういう「ふらりと立ち寄れて、変なものが飾ってあるギャラリー」にしよう! ナントカアートギャラリーでやってるような「巨匠○○の世界展」的なやつにしよう。ということで、このタイトルになりました。

このブログの記事も丸ごとエクスポートして新しいブログに引っ越そうか迷ったのですが、このブログはこのまま、ここに放置する事にします。そして遺跡になります。

「ナカイユウヒの考え事遺跡」として旅人たちの観光名所になればと思います。

尚、自分への100の質問コーナーは、だいたい100の質問に答えたような気がするので、終了とさせていただきます。

「100」っていうのは「たくさん」って意味ですよ。「八百万の神」とか、「千里眼」とかそういうやつです。実際数えたら、90くらいしかないとか、そういう細かいことはいいじゃないですか。

スマートフォンを購入

スマートフォンを買った。

といっても、まだ手元に届いていない。

中古のやつをネットで注文して、今は届くのを待っている状態。無邪気に届くと信じている状態。

買ったのは、今更だけど、ソニーの「XperiaA」。去年の夏にドコモのツートップとして発売されたもの。その頃から、これ欲しいなと思っていた。やはり、Xperiaのデザインのかっこよさは他のと比べて一歩抜き出ている。

いつも持ち歩くことを考えると、大きすぎないサイズもありがたい。バッテリーもそこそこ持つらしい。防水なので、頭からバケツで水をかけられても、何の問題もない。

デザイン、スペック、機能のすべてにおいて、バランスがいいのが特長だ。

結構売れた機種なので、中古で出回るようになった頃が買いだなと、密かに狙っていた。

まだ、発売から一年経っていないが、中古で買えば、最新のスマートフォンと比べて2~3万円は安く手に入る。だけど、最新のものと比べても、おそらく使用感にそれほど差はないだろう。

最新のものではないから、目を引くようなものではないけど、自慢したいなどの目的はないし、自慢する相手もいないし、とにかく自分が満足できればいいのである。

だから、中古で、傷が多少あってもいい、そういう細かいこと気にしないから、動けばいいからと、安いやつを探した。

一応3万円以内で買うことができた。

さて、こうしてスマートフォン本体の白ロムを手に入れた訳だけど、通話と通信はどうするのかという問題が残る。

これについても考えてある。

通話はいわゆる「格安SIM」の、通話ができるタイプのやつを契約するつもりだ。

そして、通信は、ほとんど家のwifiにして、LTEは契約しない。3大キャリアの通信料を払うと、すごくお金がかかるけど、格安SIMを使えば、今とほとんど変わらない料金(月1500円~2000円くらい)で通話もネットもできるスマートフォンができあがる。格安SIMにもいろいろあるけど、LTEなしのやつだと、相当安いので、それでとりあえず暮らしてみることにする。

電話番号はそのままにしたいので、MNPが必要である。2年契約の今の携帯は、4月で最終月。5月に入ると、解約にお金がかからない。だから、5月に入ったら、MNPで格安SIMを契約して、スマートフォンに通話機能を載せる。

それまであと一ヶ月ほどは、通話のできないXperiaA本体と、ガラケーの二台持ちということになる。

電報が届く

今朝、いきなり、電報が届いた。

電報なんてものの存在は、記憶から消えかけていた。

「馬鹿な、おまえはサテラビューと一緒にこの世から消えたはず。まだ生きていたとは」

などと思いながら電報を受け取るが、頭の中は「?」でいっぱい。

何の電報なのか、頭を巡らせる。電報と言えば「チチキトク」とか、そういうのが定番であり、何か身内に悪いことでもあったのではないか。心配ばかりがよぎる。

誰が危篤なのだろうかと、恐る恐る開いてみると、

「れんらくくれ」という文字と、父の名前があった。

「?」 連絡ならいつもみたいに携帯にくれればいいのに。

「!」 そういえば、最近携帯見てないなあ。あいつ今、どうしてるんだろう。

カバンの底から携帯を発掘してみると、案の定電池切れで、電源が切れている。

充電器につないで電源を入れると、たくさんのメールや数十件の留守番電話のお知らせが画面からこぼれてきた。

足下にこぼれた封筒を拾い集めていると、内容を確認する間もなく、着信が入る。実家からだ。やはり、何かあったのだろうか。

「もしもし?」

「元気かい? ずっと連絡が取れないから心配した」

と母の声。

どうやら、21日くらいから、今日までずっと、電話がつながらないので、心配していたらしい。

何かあったのではないかと思っていたのは、向こうの方だった。

借金取りに追われて電話を切っているのではないかとか、電話代が払えなくて止められたんじゃないかとか。僕からすれば、滑稽なほどいらぬ心配だった。

それより、こちらの心配が空振りで良かった。何かあったわけではなかったのだ。一安心。

まあ、今回は僕が悪かった。借金取りに追われているとはいえ、友達がいないとはいえ、モテないとはいえ、ロフトの天井に頭をよくぶつけるとはいえ、ほぼ唯一の、人との連絡手段を気づかずに止めていた。それくらい、携帯電話へ僕の意識は低い。

例えば、音楽プレイヤーで通話ができれば、こんなことにはならないのだ。携帯電話は一週間ほったらかしても平気でいられるくせに、音楽プレイヤーは馬鹿みたいに毎日持ち歩いている。

でも、通話ができる音楽プレイヤーなんて便利な物があるわけない、いやある。スマホ。

改めて思った。やはり、僕はスマートフォンを持つべきなのだ。

で、買いました。スマートフォン。

次回は、スマートフォンを買った話。

前回の補足

「アメブロ」も「JUGEM」も、別にアバターとか、絵文字とか、使わなくてもいいのはわかってる。

でも、僕の使わない機能に力を入れてるブログサービスはやっぱり使いにくい。

チャーハン食べたいのに、いかにラーメンにこだわっているかを熱く語る中華屋さんに入ったときみたいな気分になる。

さらに、そこに力を入れている分、他のところに力が入ってないんじゃないかという邪推も働いてしまうし。

ブログを引っ越そうかな

最近またブログを作り直したいという欲求に駆られている。

ブログとは、一生のつきあいになるような気がするので、一生つきあえるブログを求めて、ブログの引っ越しも考えている。

今、たまたまSo-net会員なので、優しくしてもらえるかなあと思って、何となくSo-netブログを使っているけど、そのうちSo-net会員も辞めることになるかもしれないし、そうしたら、人のうちみたいに居づらくなるかもしれない。

同じくらい気楽に何となくできて、これから、もっと本格的にいろいろやりたくなったときも、やりやすそうな世界はどこかに存在しないものだろうか。

いろいろなブログサービスを調べてみた。

まず、最大手みたいな感のある「アメーバブログ」はどう見ても僕には合わない。僕の顔は細長い感じなので、アメーバピグの、横にやたら広い顔のアバターみたいなのを使わされるのかと思うと気分がげんなりする。

「JUGEM」は絵文字が充実しているらしいので、やめる。絵文字なんて使わないもん[いす]

とにかく、賑やかな感じが苦手なので、そういう雰囲気のものを排除し、シンプルなデザインの中で、なるべく、穏やかにやっていけたらと思う。

サービスとしては、Googleの「Blogger」か「はてなブログ」か「Seesaa」あたりが良さそうだなあと思っている。

英語が苦手でアルファベットを見ても未だに変な記号の塊にしか見えないアルファベットアレルギーの僕としては「はてなブログ」がいいのかな

侍の人が立ち寄って、お茶と団子で一休みできそうな茶屋的雰囲気と、変なものが置いてある古道具屋みたいな雰囲気をあわせ持ったブログが僕の理想である。


お金について(もう少し)

本田健先生によると、みんなが自分の好きなことをして、生きていけるような世の中。それが理想だという。

果たして、そんなことは、可能なのだろうか。

やはり、世の中が発展しても、誰もやりたがらないような、3Kみたいな仕事だって必要な仕事で、する人がいなければ、世の中は成り立たないのではないだろうか。需要と供給のバランスからして、誰もが、自分の大好きなことを仕事にして、自由に生きられるということは、原理的に無理なのではないだろうか。

全員に、幸せなお金持ちになるための教育を施そうが、そうなることができない人がいるから、そして、その人たちが、不満を持ちながらも、やりたくないと思うような仕事を引き受けてくれているから、お金持ちの人は、そのサービスなりを享受できるのではないか。その結果、自分がイヤな仕事をしなくても済むのではないか。

嫌なことでも、お金のためにやらなければならない人がいる。自分がちょっとうまくいったからって、その人たちを、お金のない不自由な人だとレッテルを貼って、下に見る。その傲慢さがお金持ちと呼ばれる人の一番嫌われる部分なのではないだろうか。そんな思いもふと浮かんだ。

こういう考えも、結論的にはすべて「本人次第」いうところに落ち着く。

嫌々仕事をするか、「成長のチャンス」ととらえながらするかも本人次第。

それでも嫌なら、他の仕事に変えればいい。それも本人次第。

それで、やる人がいなくなって世の中が困ってしまうなら、その職業の賃金は上がるだろうから、満足の釣り合いはとれてくるだろう。

それでも「自分はつまらない仕事ばかりしなくちゃいけなくて、辛い思いをしているのに、上のやつらは楽ばかりして不平等だ」とひがむなら、「じゃあ全員が不幸なら満足なの?」と問うしかない。

確かに世の中、恐ろしく不平等だ。

だが、そこで考えるべきは、人の幸福をねたんで、こき下ろすことではない。全員を不幸にする方が、全員を幸福にするより簡単かもしれないが、みんなが幸せな世の中の方がいいと思うなら、幸せな人の足を引っ張るより、一人でも多く、幸せな人を作った方がいい。その一人を作る、つまり自分を幸せにするように動いた方がいい。それが、本人次第ということだ。

お金持ちになると妬まれやしないかと、心配だと言ったけど、妬まれる方が悪いわけではない。

本田健さんの言うような理想が実現できるかはわからないけど、みんながお金についてしっかり学び、お金に対する偏見をなくし、幸せを目指すようになることは、大いに広めた方が良さそうだ。


PS:最近書いていることは、自分でも「いやあ、書いてブログに載せるようなことじゃないなあ。自分の心にしまっておけばいいようなことだ」と思っています。あまり上手くまとまってないし、面白くもないと思っております。やや後悔しています。

お金について考えたこと(後編)

前回は、基本的な考え方を示した。これによって、僕の中の稼ぐことへの抵抗を取り除くことができた。

だが、結論が「がんばってお金を稼ぎましょう」というのでは、普通すぎる。みんなやってることだし、子供でも思っていることだ。

ここから、さらに、僕の気持ちも加えて、もう少し考えを発展させたい。

つまり、誰にとっても、お金とうまくつきあうことが重要であるというのが、前回。今回は、僕にとってお金とはという話である。

僕が、本当に望んでいることや、求めていることはなんだろう。

お金は、どんどん稼いだ方がいいとわかっても、やはり、僕にとって、どうやってもお金が一番大事という気持ちにはなりそうにない。

お金があるならあるで、ないならないで、楽しめる。それゆえ、あまりお金の心配をせずに、生きていける。そういうお金から自由な人を目指したい。

「お金がないと幸せになれない」などという人は、「私には工夫する力がありません」「質素な暮らしを楽しめません」「自分では幸せは作れません」と言っているのと同じだ。発想の転換で、貧乏なら貧乏な状況もそれなりに楽しめるはずだ。「こんな低コストでこんなに楽しめた」みたいな喜びは、お金がないからこそ味わえるものだ。実際、僕はそういう楽しみ方を結構実現しているので、あまり貧乏を苦にしていない。負け惜しみではなく、正直な気持ちだし、それはそれでいいのだろう。

そういうことを踏まえて、お金とのつきあい方で心がけることをまとめてみた。

①お金はお金である

お金について考えるために参考にした本田健さんの本によると、健康にお金とつきあっている人にとって、お金は紙と金属に見えるらしい。

そうあるべきなのだろう。僕としても、それが望ましいと思う。お金に限ったことではなく、物事を色眼鏡を書けず、フラットな目で見ることは、重要だと思うし、好きなことでもある。

つまり、お金を力の象徴とか、幸せの尺度とか、人の価値とか、そういう得体の知れないものに置き換えて考えたりしないということだ。人をお金で見ないということだ。


②お金を「目的」にしない

お金は何かのための「手段」であると考えて、「目的」にはしない。

基本的に、お金は生きるため、食べるための「手段」ということが、価値として大きなウエイトを占めるものだ。

それがいつの間にか価値が逆転して、生きるのは当然として、生きることを言い訳にして、お金を稼ぐことが目的になりがちである。でも、本当に目的にすべきは生きる方である。

お金のために生きるのではなく、生きるためのお金であると考えたい。

「なぜお金を稼ぐのですか?」という質問に、「さらにお金を稼ぐためだよ」と回答するのは、お金が目的になってしまっている感じがする。僕から見ると、それは悪いとは言わないが、少し寂しい。


③自分で稼ぐお金を大切に使う

お金には、お金を増やす力もあるという。投資とか、利子とか。本当にお金のある人というのはそういう手段でお金を増やしているようだ。

でも、僕は、お金を「目的」にしないので、これらの手段でお金を増やすことを、狙わない。つまり、マネーゲームには手を出さないようにしたい。まあ、銀行にお金を預けてたら利子が付いたとか、結果的にそうなることはあると思うけど、「狙わない」ということで。投資とかは、リスクもあるだろうし。

「いい儲け話がありますよ」と持ちかけられても、「いや、僕は、自分の力で稼ぐ以外のお金に興味はありません」と断ることにする。そうすれば、それが本当でも、詐欺でも、悔いはないだろう。

お金の力で稼ぐのではなく、自分の力で稼いだお金を、大切に大切に使っていきたい。その方が、幸せを実感できる気がする。僕は、いつか本を出したいと思っているけど、その本が売れてもらえたお金なんて、うれしくて神棚に供えたいくらい大切に思うのだろう。ただ、神棚がないので、そのお金で神棚を買ってしまうかもしれない。


④人とどう付き合うか考える

お金とのつきあい方は、人とのつきあい方と密接な関わりがある。

お金のやりとりは、つまり、人から受け取るということと、それを返すということ。それに対して、どういう態度をとるか。お金の問題は、コミュニケーションの問題である。

僕の場合、人に対して遠慮しているから、お金に対しても遠慮してしまう。結果、貧乏である。そういう面もたぶんある。

だが、僕はどんな人とも、気軽に話せて、仲良くできるタイプでもない。そこで、人とどう折り合いをつけていくかをテーマにコミュニケーションについても今後、深く考えていきたい。


⑤体も、お金も、標準よりちょっと痩せてるくらいが理想

今のところ、体型的にも、お金的にも、平均よりちょっと下くらいが理想かなと考えている。

無駄がなくて、身軽で、動きやすく、健康的で、機能美にあふれた感じ。お金で言うと、あまり多くても、回しにくいので、やや少なくても、知恵を絞ってカバーするくらいがちょうどいい気がする。

『エンディングダイヤリー』で知られる、流通ジャーナリスト金子哲雄さんのプロポーズの言葉は「年収300万でも年収600万の暮らしを約束します」だったらしい。かっこいい。僕もそういう感じでありたい。

僕は現状、体型も、お金も平均よりだいぶ下なので、人から見ると、ややみじめに見えるだろう。人からの評価はともかく、今のままではやや、エネルギーに欠ける。よりよく生きるために、体重と収入は増やすつもりだ。


お金について考えたこと(前編)

お金について考えた。だいぶ考えがまとまった。

全部書くと、膨大な量になる。

何とか、エッセンスだけをうまくまとめてここに書けないものだろうか。

まず、僕が、お金持ちになること無意識に恐れているという、異常な状態をどうにかしなければと考えたのが発端だ。

なぜ恐れているのか。例えば、僕がお金をたくさんもらったら、誰かが貧乏になってしまうのではないか。お金持ちになることはすごく、自分勝手な行為だと見なされるのではないだろうか。そういう恐れが考えられる。

それが、錯覚であることは、もちろん気づいている。確かに局地的には紙幣や硬貨を持っている量に差ができるだろうが、そんなことよりも、どの程度早くそれらが回るかの方が、享受できる物やサービスの量の差との関係において大切である。お金が早く、活発に回れば、みんなのもらえるお金や使えるお金が増えることになる。

そこで大切なのは、お金をもらう量の大小ではない。お金と健康的につきあい、収入と支出のバランスをしっかりとることだ。食べる量と消費するエネルギーの関係と同じで、お金と健康につきあうには、滞らせずにお金を回していくことがポイントである。

お金を多くもらう人に対して、嫉妬や、「金の亡者め」みたいな感情を持つことは間違いで、もし憎むなら、お金と健康的につきあえていない人を憎むべきである。お金とうまくつきあえていない人とは、収入が多くても、不安がってため込んでしまう人だったり、収入が少ないのにそれ以上に使ってしまう人だったり。これらの人は、自分も周りも幸せにしない人で、どちらかと言えば、そういう人こそ、「金の亡者」である。収入の多い少ないとは関係がない。

つまり、自分がちゃんと、お金とうまくつきあえるなら、実際いくらお金をもらっても、周りに迷惑をかけることはない。だから、稼ぐことを自体を恐れる必要はないわけである。

何らかの活動をしたとき、「お金をくれ」という態度は嫌がられるのではないか、「いや、いいですよ。お金なんていただきませんよ」という姿勢の方が周りの人にとってよいのではないかという感覚もなくはない。

でも、そういう態度で暮らしていって、ほとんど無一文の状態になったら、どうだろう。お金を持っていないとか、経済的に自立していないということの方が、他人からすれば、よほど迷惑である。

そういう意味でも、むしろ、僕はもっと稼いだ方がいいのである。お金持ちになっても問題ないし、むしろその方が世の中の役に立っていると言えるので、堂々とお金のために活動すればいい。

と、ここまでは基本的なことだ。ここから、もう少しあれこれ考えている。時間があったら書こうと思う。

それにしても、お金を通して、人に嫌われることをかなり恐れていたんだなあと、自己反省。

続・間違ってるなあと思うこと

あと、間違っていると思うのが、トレーニングジムに通っているのにパルシステムを利用する人。

そういう人がいるかどうかわからないけど、トレーニングしたいなら、買い物は自分で行けと思う。

「いや、買い物に行くくらいじゃあ、効率的なトレーニングにならないんだよ、負荷の軽い運動を長時間行っても、筋肥大は起こらないんだよ」みたいな考えも、わからなくはないが、じゃあ、何のために、鍛えてるんだよと言いたくなる。

筋肉は、買い物に行って、買い物袋を持って帰るためにあるんだろと。それをしないのに、筋肉ばかりあってどうするんだよと。

そもそも、ジムというもの自体、無駄が多いような気がして仕方ない。あれだけのエネルギーが使われているのに、垂れ流されていて、何の役にも立っていない。ルームランナーでいくら走っても前に進まないし、エアロバイクをいくらこいでも、発電もされない。それでお金まで払う。

そういう何か無駄な感じが嫌で仕方ない。

箱根駅伝すら、見ていて、何であんなに一生懸命走ってるのか、意味がわからなくなる。他のスポーツなどと違い、ただ走っているだけだから、そう感じるのだろう。たすきに手紙をくっつけて、おばあちゃんに届けて、返事をもらって帰るという設定とかにして欲しいなと思えてならない。

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