ラジオを録音して聴くために……

ラジオを聴くのが趣味なもので、どのような方法で、ラジオを録音し、聴くのが効率的なのかずっと考えてきた。

昔はカセットテープだったのが、MD(MDLP)になり、ハードディスクコンポからMP3プレイヤーへの転送になり、最近はradikoの録音になってきている。

「radiko」は言うまでもなく、ラジオがインターネットで聴けるサービスである。

特に最近は「raziko」という、radikoが録音できるAndroidアプリでスマートフォンに直接録音している。

それまでハードディスクコンポに録音したものをコードでつないで「転送」していた。この「転送」は、その都度つないだり外したりが面倒であるし、コンポの立ち上げにやたら時間がかかるという欠点があった。直接録音すれば、線をつながなくて済む分、楽に感じる。

この「raziko」というアプリがなかなか優秀で、とぎれることなく、いつもしっかり録れている。

ただ、このアプリで録音された形式だと、シークバーが使えないなど、いろいろ不便なので、「RawAAC→M4A」というアプリを使って、ファイル形式を変換して使っている。

これで、いつも持ち歩くスマートフォン一台で、ラジオが好きなときに聴けると喜んでいたのだけど、「raziko」にはさらに大きな欠点があって、録音中は他の番組を聴けないのである。

録音中、他の音楽ファイルを再生すると、今録音中の番組の音も流れてくるので、音が混ざって聞こえてしまうのである。

深夜番組なら、寝ている間に録音しておいてもらえばいいが、昼間の番組を録音したい場合、録音中は、その番組を録音しながら聴くか、他の番組を聴きたいなら録音を諦めるしかない。

具体的にいうと、毎週日曜日、午後1時から5時の「爆笑問題の日曜サンデー」をスマートフォンで録音しようとすると、その時間は、スマートフォンで別の番組や音楽を聴いたり、音声付きの動画を見たりは出来なくなってしまうのである。実に不便。

そこで、タブレット(Nexus9)の方にも「raziko」を入れて、昼間の番組を録音し、「ESファイルマネージャー」というアプリを使って、無線LAN経由でスマートフォンの方に録音したファイルを転送するという手段も覚えた。

ファイル転送に、Dropboxなどのクラウドを使うことも考えたが、試したらアップロードにもダウンロードにもやや時間がかかることが判明したのでやめた。

クラウドといえば、聞くところによると、「Google Playミュージック」において、音楽ファイルをアップすると、それをクラウド経由で、ストリーミングで聴けるサービスがあるらしい。

それならパソコンとかで録音した番組を自動的にサーバーに上げて、それをスマートフォンで聴くみたいなスマートな方法が実現できるかもしれない。

現在、日本ではそのサービスは未対応で、「アメリカカラアクセスシテマ~ス」みたいな設定上の嘘をつけば、日本からも使えるらしいが、なにか悪いことをしている気分になりそうなので、使うなら日本で正式に対応するのを待ちたい。



さっきから何のことやらさっぱりという人も多かろう。

つまり、スマートフォンで録音したラジオを好きに聴きたいというだけなのに、なかなかスマートにいかない。スッキリしたいい方法がなかなか見つからないのである。もどかしいのである。

今の時代、いくらでも出来そうなのに、もう一手間が省けない。もう一手間省ければ、面倒を感じずにラジオライフが楽しめそうなのに……。「raziko」だとファイル形式の変換が必要だし、昼間の番組は転送も必要だ。コードをつないで転送する方法に戻すのもやはり面倒だ。

……もっといい方法はないものか。

と、たゆまず研究を続けているのだが、最近研究中の方法は、なかなか上手くいきそうな気がしている。

「Radikool」というradiko録音ソフトを使ってパソコンでradikoを録音して、録音ファイルを入れるフォルダを共有フォルダに設定、スマートフォンの「ESファイルマネージャー」を使って無線LAN経由でパソコンにアクセス。あとは共有フォルダ内の録音ファイルを落とすなり、ストリーミング再生するなりすればいい。

聴きたい番組は自動で毎週録音され、ファイルは自動的に生成されるから、放っておいても大丈夫。これが一番楽かなという気はしている。

ただ、パソコンでの録音はなぜか上手くいかないことが多い。そのあたりの問題点をいかに克服するかみたいなことが今後の課題になりそうである。

夢についての雑談

睡眠時に上映される夢は、記憶の整理の役割を果たすとよく聞く。

僕が思うに、単純に知識の整理じゃなくて、感情のメンテナンスみたいな意味が強いのではないかと思う。

追いかけられたりするような、怖い夢を見ることが多いけど、これは、恐怖を感じる気持ちが鈍くなるのを防ぐための、トレーニングなのだろう。

そうじゃなきゃ、何のために、寝ている間までそんな嫌な思いしなきゃいけないのかわからない。

いざというとき、例えば、虎に出くわしたときとか、怖いという感情がはたらかないと、逃げることも出来なくなる。だから、そんな怖い状況を繰り返し見せて、

「こんな状況は怖いだろ」(声:平泉成)
「怖かったです」
「そうだ、その気持ちを忘れるなよ」(平泉成)

と、いついざというときが来ても大丈夫なように、感情をはたらかせる練習をしているのだと思う。

そのおかげで、ひげもじゃで裸に腰巻きのおじさんが笑顔で踊りながらこちらに迫ってきたとき、「怖い」と感じることが出来るのだ。

恐怖についていえばそんな感じで、他の感情も、同じように夢の中で訓練されているのかもしれない。夢というのは、そんな風にして、感情と記憶を結びつけて、感情を正確に働かせるための訓練なんじゃないかと思う。

料理の本を買って、料理を覚えよう

以前触れたように、今年はお金を使わない生活をすることにしている。

今のところ、きちんと守れていて、先月は普段より2万円も多く貯金が出来た。

ところが最近、料理の本が欲しくなった。ルールでは、本を買ってはいけないことになっている。

料理なんて、食べるのが好きなグルメな人のものだと思っていたので、「食」にそれほど強い関心のない僕はしなくてもいいやと今まで避けてきた。

だが、グルメに興味はなくても、健康には大いに関心がある。いつも気分よくいたいし、いいパフォーマンスを発揮したいし、病気になりたくない。

健康と食生活には密接な関わりがある。健康的な食生活をしたい。それには、自分で料理するのが一番だと気付いた。

スーパーで総菜を買うにしても、僕の食べたい野菜系のやつはあまりいいのがない。冷たいサラダは好きではないし、煮物も好きではないが、売られているのはそういうものがほとんど。自分で作れば、食材を好きなバランスで使えるので、栄養の調節が自在だし、調理法も味付けも自由だ。

今、料理の習慣を付けてしまえば、これから一生健康的な食生活が出来るじゃないか。しかも、料理をするということ自体が、体や頭を使って健康的でないか。

ということで、初心者もしっかりサポートしてくれるような料理の本が欲しくなった。

しかし、ルールでは買ってはいけないという。誰だ、そんな面倒なルールを作ったやつは。

今の持ち物を売り払うなどしてお金を作れば、それは好きに使っていいことになっているが、特に売るものもない。

何か、抜け道はないかと探していると、一月、このブログにお年玉で一万円もらったと書いてある。

普段の給料で入ったお金は使ってはいけないが、お金を作れば使っていいことになっている。物を売る以外にも、例えば日雇いのアルバイトをして入った収入などはそれにあたる。

ということは、お年玉もその範疇と言えるのではないか。給料以外のお金なのだから。

そのお年玉で靴を買ったが、まだ4636円残っている。

よし!!それで料理の本を買おう。

再開~ブログとのつきあい方について~

2月いっぱいブログとツイッターを休ませてもらった。

1月、世間でつまようじの動画が問題になった。

再生回数、アクセス数、閲覧数、ページビュー、訪問者数……。ネット界では、それらの数字を高めることが目標となり、数字が高いことがステータスである。だから多くの人がそれを目指して躍起になっている。

僕もまた、ブログをたくさん書かなければとか、少し、力が入っている部分があったと思う。

ただ、そうして数字を上げることばかり目指したなれの果てが、あのつまようじの動画だとしたら、なんてつまらないことなんだろうと思った。

そりゃあ確かに、つまようじを映せば、みんな見るだろう。誰だって、つまようじのくびれてる部分とか、てっぺんの黒っぽくなってる部分が見たい。でも、それはやらない約束だろう……。

何をしてでも目立ったやつが勝つ。目立ったもん勝ち。

僕はそんな世界を望んでいない。

では僕は何をするべきなのか。すべきではないのか。それを考えるために、ブログから距離を取った方がいいと思った。

道を間違える前に、立ち止まってよく考えるのだ……。

一ヶ月は何も書かないと決めた。

何か高尚な意見やら結論を出そうということではない。とにかく休んでみて、何を感じるか、試したかった。

案の定、ブログもツイッターもやらなくても、全く支障はなかった。

だからこれからも、やらなくていいやと思った。

今は、すっかり力も抜けて「やってもやらなくてもいい」「もし何か書きたいことがあれば書ける環境はある」というくらいの気持ちになった。

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