バス

あまり進んでしたくないことに、バスに乗ることが挙げられる。バスの方が早いとわかっていても、バスという選択肢は外し、歩くことがほとんどだ。

高校生の時、塾に通うため、週に数回、バスを利用していた。高校生の時の僕は、強さがカナブンより少し弱いくらいだったので、バスに乗るにも、とても気を遣った。

駅がそのバスの終点だった。塾は駅のひとつ前のバス停で降りるのが一番近かったが、そのバス停を利用する人はいつもあまりいないので、僕一人のために、バスを停めるのが申し訳なくて、他に降りる人がいなければ、駅まで行くことにしていた(駅まで行っても料金は同じだから、少しお得である)。そして、いつもそこからバス停ひとつ分戻った先の塾まで歩いていた。

当時バスには回数券的なカードがあった。プリペイドカードみたいなやつ。今もあるとは思うけど。それを買うと、一回分くらい多く乗れるし、支払いが、機械を通すだけで、簡単になる。そんな、夢のように便利なカードで、車内で運転手さんから買うことが出来る。

その日、そのカードの残高が無くなったので、新しいものを買おうと考えていた。

問題は、どのタイミングで買えばいいのかという点だ。

基本的には、赤信号で、停車しているときがチャンスなのだが、信号機もいつ青に変わるかわからない。青信号に変わっても売り買いのやり取りをしていたら迷惑になってしまう。だから、ちょうど信号が赤に変わったタイミングで停まった時などがいいのだが、中には短い信号もあるので、その時間内に支払いを終えられるかということを考えると、自信が持てなかった。

「あ、今、赤信号で停まったぞ」と思っても、運転手さんのそばまで行った途端に、信号が青に変わってしまうこともあるかもしれない。そうなると買えないし、なによりきまりが悪い。笑い物になってしまう。それを考えると怖くて、なかなか飛び出せなかった。

僕が乗ったバス停から、終点までかなりの距離があるから、信号で停まる機会は何度かある。でもその時は、なかなか、これは長い時間停まっていそうだと思えるタイミングは見つからなかった。

「あ、今停まったぞ、今なら行けるかもしれない。でも、この信号はどのくらい赤のままなのだろう?通りの大きさから考えて、あと2、30秒で青に変わってしまうかもしれない。あと2、30秒で、お金を払ってカードをちゃんと受け取れるだろうか?」

「あ、だめだ、そんなことを考えている間に時間が経っちゃったな。もう無理だ。今行ってもすぐ青になってしまうだろう、次の機会を待とう」

「また停まったな、この信号はどうだろう?う~ん。短そうな気がする。やめておこう。・・・・・・・・・・・・。まだ、青にならないな。今、行けたかもしれないな。でも、今行っても、もう遅いしな」

そんなことを何度も繰り返していた。もう、そのことばかりずっと気になっていて、座席に座っている間も、ずっと気持ちが張り詰めていた。ただでさえ、人に話しかけることには極端に緊張するし、強い覚悟が必要な僕だ。その時の緊張はがいかほどだったか、お察しいただきたい。

どんどん終点の駅が近づいていた。そこまで、約20分。もう、すっかり疲れてしまっていた。

この際、終点まで行って、降りるときにちょっと時間をもらって、そこで買ったらどうだろうと考えた。そこが、終点だから、僕がカードを買っていても、次のバス停に遅れてしまうことはないわけだし。

これ以上、赤信号のタイミングを待つのも、精神的に無理だったので、そうすることにした。

そして、バスは終点に到着。次々と降りていく乗客たち。

僕も続いて行き、支払いの順番が来たとき、5000円札を差し出しながら、「5000円の回数券をください」と運転手に申し出た。

すると、運転手はいらついた口調で

「そういうのはね。信号で停まったときとか、そういうときにしてくださいね」

と言葉を投げつけ、「はい」とぶっきらぼうにカードを手渡してきた。

血の気が引いていくのがわかった。

「はい、すいません」と、答えるのがやっとだった。

バスを降りてからも、しばらくは歩くことが出来なかった。

いったん駅で少し休んでから、こみ上げてくる涙を袖で拭いながら、塾まで歩いた。

それ以来、バスにはあまり乗りたくなくなった。いや、始めから、乗りたかったわけでもない。子どもの頃から、乗り物に興味はなかったし(乗り物酔いしやすい体質だったし)、一番好きな移動手段は徒歩である。

寂しい

一人でいることが当たり前になって久しく、僕に寂しいという感情はなくなったものだと思っていたが、先日それを思い出す夢を見た。

現実では決してあり得ない話だが、夢の中では、僕は結婚していて、新婚夫婦だった。

妻となった人は、とても明るく社交的な人だった。当然友達も多い。人気もある。しかも女性である。そんな人が僕を選んでくれた。

とても幸せな気持ちだった。

でも、彼女は、たくさん友達もいて、活動的だから、すぐ友達とどこかに遊びに出かけてしまう。

彼女にしてみれば、友達と遊ぶ方が、きっと、僕といるより楽しいんだろう……。

僕はまた一人になってしまう。

寂しい……。

どうやら、僕の中で、寂しいという感情は、完全には死んでいなかったらしい。死んでくれて楽になったと思っていたのに。まだ生きていたようだ。

はじめから一人なら、あまり感じずにすむのだけど……。

さて、夢の続きだが、彼女が帰ってくると、喜びでもって、そんな気持ちはすぐ消えてしまう。

でも、テーブルを挟んで食事をするとき、ちょっと聞いてみようと思った。「ねえ、なんで俺と結婚したの?」

その答えを聞き出すことは、夢の時間が短すぎて、できなかった。

遠慮

遠慮がちな子どもだった。

子どもだから、スーパーに行くと、当然お菓子売り場とか、見たいんだけど、先客がいると、つまり他の子どもがそこにいると、その子がいなくなるまで、そこに入っていけない。どこか、別の乾電池売場とかで、「乾電池だなあ」とか思いながら時間を潰して、お菓子売り場に戻る。まだその子がいたりすると、「早くいなくならないかなあ」と思いながら、また乾電池売場で乾電池を見たりする。

ようやく、お菓子売り場に誰もいなくなると、そこに行って、おもちゃ付きのお菓子を中心に、楽しくいろいろ見る。

でも、僕の見ているところに、他の子どもがやってくると、なんだかそこにいてはいけない気がして、いったん乾電池売場等に避難する。

そんな感じの子どもだった。その後も、大人になるまで、大人になっても、まさにこんな生き方をしてきた。どうなんだろう。こんな生き方。

ToDoやタスクに代わる言葉

スケジュール管理の方法をしっかり決めようということになった。

現在、大まかな方法は決まったので、あとは実際、生活しながら微調整、という段階である。

結局、シンプルにGoogleカレンダーを使おうというところに落ち着いた。MSOutlookも使いやすいのだけど、アンドロイドとの同期などの点からみて、Googleカレンダーが最も汎用性が高くて、間違いないだろうと。

あと、GoogleのToDoリストも割と使いやすいので、カレンダーとToDoリストの併用で、全て、スケジュールは管理できるだろう。

ところで、「ToDo」とか、「タスク」という言葉が、昔からどうも嫌いである。「ToDo」は「やること」という意味だが、発音したときの感じがなんか嫌だ。全然かっこよくない。「タスク」も「たすく」で、助けるという意味の日本語、あるいはダースローマシュ匡みたいな感じがして、なんだか気持ち悪い。そもそも僕は英語が苦手なので、これらの、カタカナ語として一般的に使われていない英語を、無理矢理日本語として使ってる感じが出てる言葉は好きになれない。

何かもっと、いい言い方はないかとずっと思っていたが、昨日、ふと、これにしようというのが思い浮かんだ。

「タスク、ToDoを処理する」ことを「手を打つ」「手を指す」「手を講じる」と言うことにするのだ。

僕は将棋が好きなので、将棋で一手指すようなイメージで、落ちついて、やるべきことをこなすのである。

そして、将来のためになる、あるいは目標の達成のために重要な手のことを「布石」と呼ぶ。「布石」はもちろん囲碁の用語だが、一般的な言葉だし、将棋でも使われる。

「今日はあの布石を打っておこう」という言い方をすれば「今日はあのタスクを処理しなきゃ」と言うより俄然やる気が出る気がしないだろうか。

「あのToDoはもう終わっている」というより、「もうすでに手は打ってある」という方がかっこいいではないか。

その流れでいくと、一般的に「プロジェクト」と呼ばれるものは「策」と言うようにしたら面白い。「プロジェクトを達成した」と言うところを「我が策、成れり」と言えば、もう気分は神機妙算、神出鬼没の天才軍師である。

羽生善治さんが「有利な時も不利な時も最善手を指すだけ」と言っていて、もっとも、羽生さんに限らず将棋を指す人なら誰もが言うことでもあるだろうけど、それは僕の座右の銘になっている。

将棋ではどんなに状況の悪い時でも投げ出さずに、投げやりにならずに、冷静によく考えて、最善の手を選び続ければ、それが起死回生、大逆転などということにつながっていくことが往々にしてある。

将棋を人生の縮図と考えれば、人生もまた最善の一手一手の積み重ねで、局面が大きく変わっていくものだろう。将棋は人生と必ずしも同じではないが、必ずしも異なるものでもなく、少なくとも、それを信じて大切に手を指していこうと思うには十分な動機づけとなる。

そういったことを忘れないためにも、僕の中では、ToDoとかタスクという言葉は使わないようにして、「手」「布石」などを使っていくことにしようと思う。

脳トレ

頭が悪くなってきたと思う今日この頃なので、ちょっと脳トレでもやろうと思い、アンドロイドアプリの脳トレをやってみた。

テストをしてみると、脳年齢が出てくる。脳年齢は、出題される課題に対して、正解するまでの速さとか、正確さとかで判定されるようだ。

最初にやった時、全く要領がつかめず、正解するのにものずごく時間がかかった。

特に、「19×17」みたいな二桁の掛け算が出てくるのだが、これを暗算で解こうとすると、全くできない。僕は、2ケタの掛け算となると、筆算しかやったことがなく、これを暗算でやろうとしたら、どう考えていいのかわからない。なんとか、頭で筆算を思い浮かべてやろうとするが、「えっと七九63だろ、で7×1は7で・・・・・・で7×9は何だっけ?」となってしまう。先にしておいた計算を覚えておけない。しかも、なるべく早くしなきゃいけないというプレッシャーもあるので、落ちついて考えることもできなかった。

「うわ~もうわかんないよ~」と半泣きで、投げやりに最後までやってみると、脳年齢38歳と診断された。

驚きなのは、38歳の人って、こんなにダメなものなのかということだ。半泣きで「どうせ俺はバカですよ~」みたいな態度で試験を受けるのが38歳なのかと思うと、38歳の人は偉そうに見えても、たいしたことないんだなあと思う。

その後、要領をつかむまで、何回かやってみると、脳年齢は26~30くらいが出ることが多くなった。苦手分野は「記憶」であることもわかった。

僕が今、何歳だったか、あまり覚えていないけど、62歳くらいだったと思うので、実年齢よりは若く判定されている。ひとまず安心である。

実家で大事件

前回の記事の通り、落ち込んでいたら、そこに実家から電話がかかってきた。

どうやら、地震の影響で、すぐ近くで火事があったらしい。

その家は、僕の実家のはす向かいと言うべきか、斜め隣と言うべきか、細い通り道を挟んで建っている家なのだが、ほぼ全焼ということだ。骨ぐみだけ残っているような状態だという。

「今も消防車がたくさん外にいる」と母はしきりに言い続けた。

「うちは大丈夫だったけど、なかなか消防車が来なくて、こっちにも燃え移りそうで本当に怖かった」そうだ。

実家にはもう2年近く帰っていないが、あちらでは、とんでもないことが起こったようだ。

「とにかく火のもとには気をつけて」と言われたが、何度も聞かされたその言葉に、かつてないほど説得力を感じた。

落ち込む

頭が悪くなっている。

今日、バイトでレジを打ったが、間違って、同じ商品のボタンを2回押してしまったらしく、1個でいい所を、2個分の値段で会計してしまった。

お会計が終わって、お釣りを返した後で、そのことを指摘され、初めて気づいた。

それまで、気付かなかったところが、まず、一つめの頭の悪いところだ。

でも、それ以上に、そのあとで、正しくお会計をし直さなければならなくなったとき、どうしていいかわからなくなってしまったのが、問題だ。

その時、もう一度、お会計をやり直すということしか頭に思い浮かばなかった。でも、もうお釣りも全部返してしまったので、それをまた戻してもらうなどという手間のかかることはできないし、と思案していた。

すると、そのお客さんが「一個分の値段をバックしてくれればいいんじゃないの?」と言う。

なぜかその時「そうか!」とは思わなかった。「そうかも」と思った。

とりあえず、そうっぽいので、その分のお金を返した。でも、頭ですっきり納得しているわけでもなかった。5千円札をもらって2900円くらい返しているけど、本当なら、いくら返すべきだったのか、計算しなくても本当に大丈夫なのか?

やがて、一個分の値段を多くもらっているのだから、それを返せばいいだけなのは、火を見るより明らかだと気付くと、途端に悔しさがこみあげてきた。

なんでそんな簡単なことが、すぐにわからなかったのだろう。

僕はいつからこんな馬鹿になってしまったのだろう。

頭がクリアに冴えているときの僕なら、こんなのはすぐにわかるはずなのに。今日だけ、たまたまなのだろか? それとも最近、頭を使うことをさぼっていたために、どんどん頭が悪くなってしまっているのかもしれない。

お客さんも、ダメな店員だと思ったに違いない。

こう考え始めると、どんどん考えは悪い方に転がっていき、「なんで、こんなことになってしまったのだろうか。いままでの生き方が間違っていたに違いない、もうダメだ。死にたい。」くらいのところに行き着いてしまう。

それから、自分に対する苛立ちがしばらく続いた。

お会計の、お金のやり取りと言うのは、単純に考えれば簡単なことなのだ。お金と物の等価交換だ。それが頭にあれば、そんなにおかしなことにならないはずなのだ。でも、具体的な細かい数字を前にしてしまうと、途端にそのことを忘れてしまう。普段の生活でやっているのは、お金を払ってお釣りをもらうという、数字のやり取りがほとんどだからだ。

昔から、そこに目をつけた有名な詐欺があるくらいだ。「壺算」という落語の小噺である。

すごく内容を簡略化して紹介すると
「壺ください」
「大きいのが8万円、小さいのが4万円です」
「小さいのをください。はい4万円」
「まいど~」
しばらくして
「さっき買った壺なんだけど、やっぱり大きいのにしてください。で、この小さい壺は下取りしてください」
「はい、わかりました。では4万円で下取りますよ」
「じゃ、その4万円と、最初に渡した4万円。合わせて8万円だから、大きいのもらっていきますね」
「はい、まいど、どうも~」

という感じだ。これは簡略化されているので、どこがおかしいか気づきやすいだろうが、これに、複雑な事情や、世間話、もっと細かい数字などがからんでくると、意外と騙されても気付きにくい。

昔、志村けんのコントでもこういうのがあったのを覚えているが、当時小さかった僕は、詐欺であることを見抜けず簡単に騙されてしまった。

そのくらい、お金は混乱を招きやすいものだからと、自分を慰めてみる。

それにしても、最近は昔と比べて、ひらめきも生まれないし、頭が悪くなった気がして仕方ない。最近は決まった作業ばかりの1日を過ごすことが多く、腰を据えた読書も、クリエイティブなこともできない日が続いている。それにも原因があるのだろうか。

僕も、もう終わってしまったのかもしれないと、本当に落ち込む。始まってもいないのに・・・・・・。

洗礼を受けた話

そんなわけで、アンドロイド端末を入手した僕。安月給のくせに、よくそんなお金の余裕があるなと思うかもしれないけど、月々の交際費とか電話の通話料がゼロ円なので、その分、こういうところにお金が使えるのである。友達を減らすだけで簡単に欲しいものが手に入るよ。みんなもやってみよう。

さて、アンドロイドを手にしてみて、あまりの素晴らしさに驚く。知ってはいたけど、実際使ってみて、改めてこんな素晴らしいものがこの世にあったなんてと感動。今までの携帯電話とはまるで違う。とにかく動きが速い。

思った以上に使えるので、これなら、生活の中心をここにおいても大丈夫だろうと思った。

つまり、忘れそうなことを通知してもらったり、スケジュールを教えてもらったり、日常生活のあらゆる場面の管理をこれで行うのだ。

目指すは、アンドロイドアプリを使った、日常生活の完全仕組化。

スケジュール管理はずっと課題であった。手帳を一応持っているが、書いたり書かなかったり、見たり見なかったり。だから、この機会に、しっかりやってみようじゃないか。

ここ何日かは、ブログの更新などには目もくれず、寝不足になりながら、スケジュールやtodo管理の使いやすいアプリを探しまわっていた。

どれも、一長一短で、「こっちのアプリのこの機能が、こっちのアプリで使えればいいのに」みたいな感じで、なかなか「これ」というのは見つからない。

パソコンでアプリの紹介ページとかをいろいろ見て回っているだけで、気付くと8時間くらい、ご飯も食べずに調べ続けていて、休みの日が一日つぶれていた。ほら。スケジュール管理をしっかりしないから、こういうことになるのである。

しかし、これを無駄な時間などと思っていはいけない。エジソンなら、こう言うだろう。「使えないアプリをこんなにも発見できた」。

エジソンがフィラメントの素材を探していた時と同じような境遇に今僕はいて、いろいろなアプリやツールを調べながら、確実に前進しているのだ。

そんな中でとうとう見つけた!使いたかったアプリ。

「ことばのパスルもじぴったん」無料版!

「もじぴったん」おもしろいんだよね。さっそくダウンロード。

無料版とは言え、なかなか手ごわい。やりごたえがある。一通りクリアはしたが、今度はハイスコアを更新しないと気が済まなくなってくる。なにしろ、ハイスコアを出すとスタンプがもらえるのだ。全部スタンプがたまるとなんと、大きなスタンプがもらえるのだ。これはやらないわけにはいかない。

で、結局、また寝不足。スケジュールどころか、生活に支障が出そうだ。

これも、アンドロイド端末を手に入れた人のほとんどが通る道、アンドロイドの洗礼なのだろう。

Zシリーズ

まず、はじめに、スマートフォンはしばらく買わないことにした。

去年の終わりごろ、スマートフォンを買おうか迷っていた。もともと、パソコンなど、便利なものにはものすごく興味がある。手元でインターネット、動画などが見られるスマートフォンには興味があった。

とはいえ、そこには高い壁があり、簡単に手は出せなかった。通信費も、本体の値段も、大変結構なものだ。「さすがです」といった感じだ。

だが、そこで、その壁を取り払う策を発見した。WiMAXを契約し、光回線を解約することで、今までの「光+携帯パケット」の通信費を「WiMAX」一本に絞る。

これによって、通信費の壁が崩れたどころか、むしろ、今までより安くあがるかもしれないという希望すら見えた。

ところが、WiMAX機器をレンタルして、試してみたところ、自宅内では期待したほどの速度が出ず、ネットは家で使うのがほとんどの僕にとって、安定した光回線を捨ててまでとはならなかった。

この結果を受けて、今スマートフォンを買うのはやめて、春ごろまで様子を見ようということになった。それが去年の話。

その後、携帯料金プランを見直し、メールし放題プランに変えたり、通信を使うサービスをやめることで、パケット通信をほとんど使わない形にした。

様子を見ていると、様子は見るものだと思う。

相変わらず、この分野は日進月歩である。3か月様子を見ただけなのに、あわててスマホやWiMAXを契約しなくてよかったと思える情報がどんどん入ってくる。スマホ本体も、新機種がつぎつぎ発表されている。もう少し待てば、もっといいのが出るかもという雰囲気が常にあって、大縄跳びの縄にいつ入ろうかみたいな感じになって、選ぶのが難しい。ちなみにiphoneは買わないことにしている。理由は、持っている人があまりに多いから。

それ以上に注目なのは、次世代通信サービス。「ソフトバンク4G」や「イーモバイルLTE」。ソフトバンクの方は2月に始まっていて、イーモバイルの方は3月15日からサービス開始。これらなら、いままで最速と噂されていたWiMAXを上回る速度が出るかもしれない。

特に下り最大75MのイーモバイルLTEは2年契約で月3880円と、これまでと変わらない料金設定になっていて、かなり期待できる気がする。

どちらも、エリアの拡大、整備にはまだ時間がかかるだろうから、しばらく様子を見てみることにする。ネットで口コミなどを集めて、よさそうだったら、光回線を捨ててそちらに乗り換えるつもりだ。


さて、前置きが長くなったけど、次に本題。スマートフォンはしばらく買わないことにしたけど、その代わり、アンドロイド搭載のウォークマンを買ったよ。ウォークマンのZシリーズ。今、買ったばかりなので充電中。

家で、wifi接続して使う。外ではネットには繋がらないけど、ウォークマンは聴けるし、ダウンロードしたアプリで楽しめるし、これからのITの世界の変化を眺めながら気楽に使うのにちょうどいい。

いつもウォークマンは持ち歩いていたので、それがグレードアップしたという感覚。

これなら、スマートフォンより安く(物や店や補助金にもよるけど)、アンドロイド端末や、アプリが使える環境が手に入り、今使っているメールの文字が打ちやすい携帯電話(そろそろ本体の分割払いも終了になる)もそのまま使える。我ながらいい選択をした思う。急いでスマートフォンにしなくてよかった。

ただ、ウォークマンにしてはでかい。大画面だ。それは長所でもあるけど、胸ポケットとかにちょこっと入れておけない感じではある。

あと、カメラが付いていない。写真はそんなに好きではないけど、QRコードを読み取るとか、本や雑誌とか、掲示物の気になる部分をメモする代わりに写真に撮るみたいな使い方はしたかったので、おもちゃ程度のものでもあった方が嬉しかったかなとは思う。

さて、そろそろ、充電できたかな。

エクソシスト

相変わらず、いろいろ映画を見ている。100本見ることにしたというのは以前に書いたとおりだが、今のところ、30本を過ぎたくらいだ。

昨日、『エクソシスト』を見た。ホラー系はめったに見ないのだが、そういうのも勉強のために見ておかねばと思った次第。これが、衝撃的なシーンの連続だった。夜寝る前に見たため、布団に入っても、恐ろしいシーンの数々が止めどなくよぎり、神経が高ぶってしまって、なかなか寝付けない。

そこに、突然、携帯電話から、地震を知らせる大音量!

もう、勘弁してほしかった。いい年して泣きそうだった。

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