添加物

食べ物についていろいろ書物を調べていると、食品添加物に気をつけろという話がよく出てくる。

食品添加物ってどうなんだろう。

そんなに悪いのだろうか。

例えば、たばこを吸う人がいる。

たばこは百害あって一利なしとか言われるくらい、体に悪いものだと言われている。でも、たばこを吸っている人は、結構みんな元気そうである。

食品添加物も同じようなものなんじゃないだろうか。

みんな神経質になり過ぎなのではないか。

たばこよりも害が大きいというなら、考えなきゃだけど。

錯視

伊集院さんのエッセイ『のはなしし』を読んでいたら、「錯視」の話が出てきた。

「錯視」というのは、目の錯覚というやつで、同じ大きさのはずなのに、位置によって大きさが違って見えるとか、平行なはずの線が平行に見えないとか、いろいろなパターンのやつがある。

伊集院さんが特に好きだという、止まっているはずの印刷された図形が、なぜか動いているように見えるというやつは、主に北岡先生という人が研究し、制作されているのだが、僕も好きで、本も買っている。

伊集院さんは、人間の脳がそうなっているからこそ、誰にも真実が見えないという怖さと不思議さを訴えていた。よくわかる。

たまたま人間が知覚できない形とか模様の虫とか生き物がいたとしたら、それは誰にも見えないという怖さ。

ひょっとしたら、そういうものが既に世の中にはあるのに、知覚できないから、誰も気付いていないだけかもしれない。

先日僕が、姿をとらえることが出来なかった蚊も、そういうやつなのではと思ってしまう。



錯覚が起こるというのは、別に、悪いことではない。

その方が、何かしらの理由で生存に有利だからと考えられる。

例えば、有名なミュラーリヤー錯視。



2本の横棒は同じ長さなのに、上のやつの方が長く見えるというこれ。

これなどは、目がこの図形を勝手に遠近法で見てしまうために起こる。

つまり立体的にとらえ、同じ長さの横棒なのに、上の図は奧にある、下の図は手前にあると認識するから、実際よりも、長く見えたり、短く見えたりする。

これは手前と奧の距離感を、より少ないエネルギーで、より素早く判断するためのシステムで、それがあるとないでは、生存競争の結果に大きな差が出てくるものと思われる。

つまり、動物は(人間の先祖は)、進化を繰り返しながら、「間違っててもいいから、とりあえずこういう角度の線を見たら、そこから、大きさを瞬時に感じ取れ」みたいなことを遺伝子に残してきたのだろう。そうしないと、危険から逃げ遅れるかもしれない、あるいは、獲物を逃がすことになるからと。



同じように、止まっている図形が動いて見えるというのも、おそらく何かあるのだろう。

わからないけど、例えば、「こんな模様を見たら、毒蛇の可能性があるから、たとえ、動かなくても、動いているように感じて、それが生き物だと認識しなければ危険だ」とか。

そうして長い年月をかけて、錯覚であっても危険を避けたものが生き残った。いろいろ複雑な要因はあるだろうが、大まかにはそんなところじゃないかと思う。



錯覚の原因になっているものは、「間違っててもいいから、そう判断しろ。その方が生き残れる」という生物としてのシステムだと僕は認識している。

今の人類は、ほとんど全ての人が、正常に錯覚を起こせている。もちろん、実際には錯覚しようとしているのではなく、生存に有利なシステムが働いているだけで、錯覚は結果として(副作用として)起こるだけなのだけど。



にしても、錯覚する方がデフォルトで、どう頑張っても、正しく認識する方を選ぶことが出来ないというのは、何とも不思議である。

ただ、こういったことを「これは錯覚なんだ」なと、認識できるのは唯一の救いである。知性の勝利という感じがする。

もしかしたら、「錯覚なんだ」と認識できない錯覚もあるのかもしれないが、それはもはや錯覚とは呼ばれないのだろう。正しいこととして、真実として認識されるのだろう。じゃあ、「正しい」って何だ。そういうことも含めて不思議だと思う。

伊集院さんもそんな気持ちになっていたのだろうか。

夏の恐怖体験

原付バイクで走行中、前方で、手押しのカートを転がしているおばあさんが道を横切ろうとしている感じだったので、止まって待つことにした。

すると、おばあさんは、その細い足で、ひょいひょいと、走り出した。

意外だった。ずいぶんなお年の方だったと思う。背中も曲がっているし、走りそうには見えない雰囲気だった。だけど、しっかり地面を蹴って、腿を上げて走り出したのだ。

急いで渡ろうとしてくれているのだろうか。この炎天下、そんなお年の人を走らせることに、多少申し訳ない気持ちにもなった。

ところが、道の真ん中あたりに来たところで、そのおばあさんが前に進まなくなった。

カートにつかまったまま、その場で、ぴょんぴょんと跳んでいるだけで、壁に向かって走っているゲームのキャラクターみたいに、前に進んでいないのである。

そして、こっちを見て笑っていた。

怖い。

何?

とりあえず、会釈をして、おばあさんの後ろ側から通った。

怖かった。何か呪いをかけられた気分だった。

シュタインズゲート

 『シュタインズゲート』のアニメシリーズを全話見終えた。

いやあ、これも面白かった。

ここ最近見たものの中で一番面白かった。

これは、バンダイチャンネルではなく、DVDレンタル。

ゲームが原作らしいが、タイムマシン、過去改変を扱いながらも、リアリティを持たせる描き方で、引き込まれる内容だった。

侵略!イカ娘

バンダイチャンネル。『コードギアス』のあとは『侵略!イカ娘』を見ることにした。

思いの外、面白い。かなり気に入った。

これを作ったのが自分ではないのが、悔しいくらいである。

主人公が特殊な力を持ち、世界を意のままにしようとするあたりは、『コードギアス』と同じである。予想外のことが起きて、それがうまく行かなくなって悩んだりする点でも『コードギアス』と共通する。

ぜひ『コードギアス』のルルーシュを見たあとで、同じく大きな野望を持つ主人公としての「イカ娘」を見て欲しい。落差がすごいから。

目が覚めて、気づいたら、耳元を蚊が飛んでいる甲高い音が聞こえる。

手の甲を刺されていた。

鳴り止むことなく、蚊の羽音は聞こえている。

時計を見ると、朝4時だった。外は薄明るい。

気になるので、いったん電気をつけて、あたりを見回してみる。

部屋には壁をはじめ、棚、布団、iPad、僕の肌など、白いものが多いので、蚊がいれば、発見しやすくなっている。だが、飛んでいる蚊の姿は発見できなかった。

あわてて起きて、キンチョールを探してきて、周辺に散布した。

しかし、くたばったようすも、「ギャー、苦しい」などの悲鳴もなく、その後も飛んでいる音ばかりが聞こえる。

そしてやはり、姿を目でとらえることはできない。

プーンと飛んでいる音は確かに聞こえるのだ。

でも、どこを探しても、姿が見えない。

棚の置いてあるあたりから音が聞こえるが
、中身をいったん出してみたりしても、姿は見えない。

1時間くらい、姿の見えない敵と格闘した。神経はすっかり衰弱してしまった。

だんだん、自分の耳がおかしいのではないかとか、疑い始めた。

何かその辺に置いてあるパソコンとか、マルチタップとか、冷蔵庫とか、蚊の音製造機とかの機械の音を、蚊の音だと思いこんでいるのかもしれないと、考え直し、消灯して、再び床に就く。

すると、また、大きな音で、明らかに蚊の羽音が聞こえてくる。

当然、電気をつけても、姿は見えない。


進化の果てに、どうやら、ついに透明の蚊が現れたらしい。

おかげで睡眠が満足にとれなかった。

再配達

朝、電話がかかってきた。

配達屋さんからだった。

最近留守がちで、宅配物が受け取れないことが多かったので、催促というか、いつ届けたらいいかということだった。

その荷物は、時間指定して届けてもらったけど、昼寝をしている時間とかぶってしまい、いたにもかかわらず、受け取れなかったものだった。

そのあとは、なかなか忙しい日が続いていて、今日も3時から5時くらいの間なら家にいるけど、それ以外は出かけている予定である。

なので、「4時くらいならいますけど」と伝えたら

「あのね、4時くらいってのはないんですよ。2時から4時、4時から6時……」

知ってるよ、もしくは知らないよ。

僕は、自分の都合を伝えただけだもの。

そのあたりの融通を利かせてくれるための電話じゃないの?

何というか、電話までかけてきてそれか。通常の再配達の申し込みフォームだと合う時間がないから、たまたま、家にいる時間に届けてもらえる可能性があると思って、こっちは、再配達の申し込みをあえてしていなかったけど。

ちょっとがっかり。

それならいいやと別の日にしてもらった。

雨に打たれて

醤油を切らしていたので、駅の方まで買い物に行った。

買い物を済ませて帰ろうとしたら、外は土砂降りの大雨。

とりあえずスーパーから駅まで移動。

ほとんどの人は駅で立ち往生していた。

僕は傘も持っていなかった。

ただ、駅と外の境目の屋根の下で、スマートフォンを左手に持って、右の人差し指でいじっているたくさんの人たちを見ているうちに、なんだか、イライラに近い感情がわいてきた。

「この軟弱者どもめ! この程度の雨が何だ! 俺が手本を見せてやる!」

と、大きな声で叫ぼうかという勢いで、僕は、雨の中に飛び出して、堂々と歩いた。走ったり、頭をかばったりはしない。雨など降っていないかのように歩いた。

実際、気にしなければ、なんてことはない。ただの水じゃないか。服も俺も、洗濯や風呂でどうせぬれるのだ。今ぬれても同じことだ。スマートフォンだって、こういうときのための防水だろう。

どうだ、見たか、この男らしさ! 俺の「早く帰りたい」という純粋な気持ちは、この程度の雨に左右されるものではないのさ。

それで15分くらい歩いて、さっき、家に帰ってきた。ズボンは水を吸ってだいぶ重くなっていた。服を脱いでシャワーを浴びた。

シャワーから上がり「わかったか、駅の連中よ。雨が止むのを待っていたら、いつまでも帰れないぞ」と思いながら、外を見たら、雨は止んでいた。

コードギアス

バンダイチャンネル加入後、アニメを少しずつ見ていこうと思っていたが、案の定、見過ぎてしまっている。

『コードギアス反逆のルルーシュ』を見始めたら、面白くて止まらなくなった。寝不足注意とレビューにも書かれていたが、「R2」まで全50話、一気に見てしまった。

見過ぎには気をつけねばと思っていたのに、早くもこれである。

でも、面白かったので、全く悔いはない。見ておいて良かったと心から思う。

評論家ではないので、内容について語ったりするのはやめておこう。長くなるし。

ロイドさんとラクシャータさんが好きです。

「絶対に幸せにします」問題

「世界中の誰よりも」問題について書いたけど、

お嬢さんを僕にください的な場面での「絶対に幸せにします」も同様である。

世の中をしっかり観察していれば、「絶対」なんてほぼないことがわかる。

「絶対に」などと大きく出るのは、世の中をなめている。もしくは、世間を知らないということである。そんな人に娘を任せていいものだろうか。

もちろん控えめに「60パーセントくらいの確率で幸せにします」と言えばいいということではない。「絶対」なんてことはあり得ないのに、「絶対に」などと軽々しく言うのが不誠実なのである。

簡単に「絶対」と言うことは自分を過信して、具体的、分析的な思考を放棄しているということである。幸せにできない可能性を考えることから逃げているということである。

どんな人にも弱点はある。その弱点が、相手を傷つけるかもしれない。不幸にするかもしれない。自分は悪くなくても、何か不幸な事故があるかもしれない。それを考えれば「絶対」に人を幸せにできる人などこの世にはいないことがわかるはずだ。

誰であっても、絶対なんて無理だ。だからこそ、用心しなければならないし、頑張らなければならない。

無責任に「絶対」という偽りの言葉を振りかざさず、「絶対とは言えないけれど、少しでも幸せを感じてもらえるように、傷つけないように、最善を尽くします」と言う方が誠実なのである。

個人的には、「幸せにする」というのも引っかかる。

「大切にする」なら自分の気持ち次第だが、「幸せにする」は、それを受ける側に依存する。自分がいくら頑張っても、相手が受け取らなければ幸せにはできないのである。

つまり、幸せとは主観的なものであるから、感じるためには、幸せを感じることにおける本人の成長が不可欠で、つまり本人次第なのである。自らを幸せにする努力をおろそかにして、一方的に幸せにしてもらうことを期待するのも、幸せでないことを相手のせいにするのも、自ら幸せを遠ざける行為なのである。

パートナーに対し、そのための手伝いとか、協力をするという意味で「幸せにする」というのならいいが、主に経済力でもって、楽をさせることを「幸せにする」いうのなら、長い目で見たとき、そのツケを払わなければならなくなる。例えば、楽に慣れた分、衰えた忍耐力が、少しの困難な状況に対しても不満を抱かせ、お互い相手のせいにして、傷つけあうといったような形で。

幸せになりたいなら、結婚相手を幸せにしたいなら、幸せの本質をつかんで、幸せを感じる技術を身につけるべきなのである。それは例えば、「こういうときは、こう考えるといい」みたいな思考の訓練だったり、もっと実践的な生きる知恵だったり。何にしても、個人としての成長が不可欠で、それには男女も年齢も関係ない。全ての人に当てはまるものだと思う。



余談だけど、レヴィ=ストロースを学んでいたら、「男は他の男から譲り受ける形でしか、女を手に入れることが出来ない」という衝撃的な考察に行き当たった。

そんな、これだけ男女平等が叫ばれている世の中なのにと、否定したい気持ちもありつつ、確かにそうなのだろうとも思う。僕みたいに優しい男ばかりじゃない。力尽くでも女を得ようとする男がいる。女性は必然的に守られる立場になる。それは男女が身体的に違うという段階で、遺伝子レベルで刻まれている感覚なのかもしれない。

この国でも、結婚するときは「お嬢さんをください」と父親に許可を求めることが通例である。

形式的なことだとしても、なんとなく、僕には、それがいいあり方だと思えない。本当に、男女平等の世の中であって欲しいと思っている。結婚の際、父親の許可など必要なく、当人同士で勝手に決められるのが当然であって欲しい。(もちろん、親の気持ちをないがしろにしていいという意味ではない。意見は聞くけれど、あくまで、決めるのは本人だということ)

僕が、もし結婚することになったら、「お嬢さんをください」とは言わずに、「○○さんと結婚します。よろしくお願いします」と言おうかなと、ふと思った。

許可を取るとか、許してもらうとか、もらうとか、奪うとか、そういうことではないという考え方であることを示したい。物じゃないのだから。

いつか、「お嬢さんをください。絶対に幸せにします」が過去の物になって、「○○さんと結婚します。よろしくお願いします」と言うのが、この国の常識になったら嬉しい。

それと、結婚後の名字も、まだ一般的には女が男の方に変わることが多いが、法律的には、どちらか好きな方みたいな感じになっているはずなので、「家」とか関係なく、できれば相手側の名字を採用したい。例えば「堀北佑陽」になりたい。

ネズミ

ネズミがいたのでつい、写真に収めてしまった。

ネズミって尻尾がミミズっぽいののが残念。もっと丸っこければかわいいのに。




超胃が痛かった

昨日の昼過ぎ、ご飯を食べたあと、しばらくの間、ものすごく胃が痛くなった。

急性の胃炎だと思う。

アレルギーによるものだろうかとも疑ったが、はっきりしたことはわからない。

食事を食べる前は元気だったので、食べたことが原因なのは間違いない。

食べたのはコンビニの冷たい麺なのだけど。暑いからと、冷たいものを食べたのが良くなかったのかもしれない。

ネットで調べると、冷たいものを早く一気に食べたりすることが急性胃炎の原因になるらしい。

この度の胃の激痛の原因はそれかなあという気がする。

「こら! 急いで食べるな、この欲張り!」ということで体から罰を受けるというシステムというわけか。

重い罰だった。トイレや外で4~5回吐いた。

吐いて胃が空っぽになったっぽかったが、その後も激しく痛み続けた。実は重い病気で、レントゲンにもうだめな感じの影が写るのではないかとか、「この痛みが最終警告だったのです」と、ナレーションが入るのではないかとか、どんどん悪い方に考えてしまうほど痛かった。

時間が経って痛みは治まったので、現在は無事である。

今回しみじみ感じた。ネットがある時代で良かった。

インターネットで急な胃痛について調べたおかげで、だいぶ気分的に楽になったから。

夏だけど、これからは、冷たい食べ物は胃のために、なるべく避けることにする。今回の原因かはわからないが、冷たいものは胃に負担をかけるのは間違いないようなので、食べないに越したことはないという判断。

皆さんもお気をつけください。

下準備

野暮用を一気にやる日を作ることにした。

その準備として、終わったら与えられる記念品を用意しておいた。



これで、もうやるしかない。

バンダイチャンネル

7月に入って、バンダイチャンネルのアニメ見放題に加入した。

月1000円くらいでアニメの動画が見放題というやつで、かなりたくさんのタイトルが自由に見られるようになっている。


僕は、昔から、ながら族で、ご飯を食べながら、何かしらDVDなどを見る習慣がある。ただ食べていると、時間がもったいないような気がしてしまう。ながらはよくないという話はあるが、この癖は直りそうにない。

特に見るものがないときは、YouTubeで適当に興味のある動画を見たりしていたが、どうせ見るなら、もっと質のいいものをと思っていた。

アニメなどは、一本あたり30分以内に終わるので、ご飯を食べながら見るのに、ちょうど良かったりする。

近所のTSUTAYAでレンタルするのもいいのだけど(一枚100円だし)、見たいのがレンタル中だったりすると、見送らなければならない。

無事借りられたとしても、見たら返しに行かないといけない。これも面倒である。

しかも、借りると、一週間以内に見て返さないといけない。これが結構プレッシャーなのである。

他にやりたいことがあったり、気分が乗らなかったりすると、楽しみで借りたはずのTSUTAYAの青い袋を見るだけで憂鬱になる。

見たいときに見られるという安心感が欲しい。

バンダイチャンネルを発見したとき、これだと思った。


名作と言われているアニメのまだ見ていないやつも、たくさんラインナップされている。

画質も綺麗だし、サービス自体には満足である。

パソコンで見たり

iPadminiで見ながらブログを書いたり


あとは、
月1000円が無駄にならない程度に利用できるかどうか。

忙しくて、ほとんど見ない可能性もある。


からといって、暇さえあればアニメばかり見ていたら、アニメオタクになってしまう。

僕にとって、作品鑑賞は、あくまでストーリー作りの勉強のためなので、見過ぎて他のことがおろそかにならないようにもしなければ。

「世界中の誰よりも」問題

恋愛ドラマとかの台詞で

「あなたが好きです! 世界中の誰よりも!」


みたいなのがよくある。


この台詞がよくわからない。


告白するとき、こんな台詞、絶対に使いたくない。


例えば、一般的な恋愛の文脈で、この台詞を男が女に向かって言う場合



  • 世界には、あなたのことが好きな男が他にたくさんいるかもしれないが、そいつらの「好き」よりも、オレの「好き」の気持ちが一番強い
  • 世界にはたくさんの女がいるけど、その誰よりもあなたのことが一番好き


の二通りの意味に取れる。


「誰よりも」というのは、男、女に限らず、親兄弟などを含めても、ということかもしれないが、ひとまず、それは置いておこう。


まず、二つの意味に取れる段階で、誤解される可能性が高い。


なぜそんな曖昧な言葉を選ぶのか理解できない。

さらに問題なのが、その内容である。

後者の意味なら別に問題は無い。自分の主観的な気持ちを、素直に伝えただけである。


ところが、前者の場合はかなり問題がある。


「他の誰の気持ちより、より自分の気持ちの方が上」と言っているわけだが、他の人の気持ちなど、わからないはずだろう。わからないくせに、他の人は、自分より下だと、勝手に決めつけてしまっている。


自分の気持ちが強いからといって、それをもって一番だと決めつけるのは、認識力が不足しているし、論理が破綻している。

「私は彼女がとても好きである。従って、彼女を一番好きなのは私である」

全く成り立たない。その結論を導くには、他の人と厳密に比較した上でなければならないはずである。

現実には、誰の「好き」が一番強いかなんてわかり得ない。「好き」の気持ちの強さは、計測できない。(というより、ひょっとしたら、永続的な愛情というのは、そんなに気持ちの高ぶるような、情熱的なものではないのかもしれないし、強さを比べるようなものでもない気がする)

なので、この台詞を言う人の「他の誰より好き」は、本当かもしれないし、違うかもしれない。それは誰にもわからないというのが、正しい認識であろう。

確実にはわからないことを、あたかも真実であるかのように言うことは、相手を騙す行為であり、不誠実で、自分勝手で、自己中心的な態度である。

さらに言うと、思い込みが激しく、他の人の気持ちを尊重せず、甘く見ている。自分のものにしたいあまりに、他の人を蹴落とそうという態度である。

人の気持ちを尊重せず、勝手に自分の下に置いてしまうような人が、「誰よりもあなたが好き、幸せにする」と言っている。信用できるだろうか。


「誰よりも」のなかに彼女の両親なども含まれているとしたら、命よりも大切と思いながら育ててきたご両親に対して「その愛情はオレ以下だけどね」と言うようなもので、とても失礼である。


本当に好きなら、他の人の気持ちは関係ないはずである。

人と比べなくても、「好き」に嘘がないなら、それに自信を持てばいいのである。


たとえ他に強い「好き」の気持ちを持った人がいたとしても、それでも自分を選んでもらえるようにアピールするべきなのである。


「オレが一番おまえが好きだ」などと、確かめられもしないようなことを言わずに、実際の態度や行動で示すべきなのである。



なんて、主張しても僕は、「そんな理屈っぽいこと言う人イヤ」と、モテなくなる一方なんだろうな。

EASYモバイルSuica

なんだかんだで、結局「EASYモバイルSuica」をスマートフォンに搭載させることにした。

じぶん銀行の口座を持っているので、手数料をかけずにチャージが出来る。

一回にたくさんチャージした方が手間は少ないのだけど、一度チャージすると、それを現金に戻すのは難しいので、使う分を考えて、やり過ぎないようにしないといけない。Suicaといえど、まだまだ、使えないお店の方が多いのだから。

僕の場合、残高が1000円を切ったら、5000円くらいチャージしておくのが妥当かな。

5000円チャージした次の日に死ぬと、なんかもったいないと思ったけど、死ぬことを考えれば、チャージせずに銀行にあっても同じことである。遠慮なくチャージしたらいい。

そういう作戦を立てて、さっそく会員登録。

とりあえず2000円をチャージしてみた。

さて、…………これで使えるのかな?

いざ駅やコンビニで使おうとして、使えなかったら恥ずかしい。

まず、自販機で試してみたい。

外に出たところに、ちょうどSuicaの使える自動販売機がある。それで試そう。

でも、そのために欲しくもない飲み物を買うのは癪だ。

よし、じゃあ、まず喉をカラカラにしよう。

ということで、3キロ程度走る。飲み物を買ってももったいなくないレベルまで、汗をかいておく。

よし、これで、飲み物を買う理由が出来た。

いよいよ使ってみる。ボタンを押して、パネルにスマートフォンの本体をくっつけてみる。

飲み物出てきた。使えた。

まあ、当然なのだけど。

とにかく、これをもって、僕は電子マネーはモバイルSuica一本にすることにした。

たくさん持つと、その分、金額が分散する。管理も面倒になる。それが嫌だからである。

今後、コンビニでnanacoをどれだけ勧められても、断る。

おサイフケータイ再検討

以前、モバイルSuicaを検討するも、年会費の問題で断念した。

電子マネーを持つとしたら、電車に乗れて、お店でも幅広く使えるモバイルSuicaがいいと、思っていたのに、年会費がかかるのでは、ちょっと手が出しにくい。

その後、新しい財布を買った。この財布が、大きさ的に、ポケットにも入れにくく、ちょっと出かけるとき持って出るには都合が悪い。

ちょっとコンビニに行くのに、ジャージのポケットに入れると、明らかに不格好になってしまう。太ももに大きな添え木をしている人みたいになってしまう。

そうなると、やはり、ちょっとコンビニというとき使えるおサイフケータイがあった方が便利だ。

おサイフケータイを再検討してみることにした。

モバイルSuicaが無理となると、以前述べたような理由でそれ以外のチャージ制の電子マネーは使いたくないので、iDか、QUICPayの後払い型のやつにしようかなと考えた。

iDの方が使えるところは多そうだと思ったが、名前が引っかかる。

「アイディー」というのは、結構、一般名詞として使われている。「ID番号を入力してください」とか。「通るにはIDカードが必要ですよ」とか。そういう点から、「電子マネーのiD」と説明しなくては誤解を受ける場面なども出てくるのではないか。そういう変な心配をしてしまう。「Edy(エディ)」と間違えられても嫌だし。

なので、名前的にはQUICPayの方が電子マネーっぽくていいような気がする。

コンビニで使うときも、店員さんに向かって、体を左右に揺らしながら、顔の横に手を交互に持ってきつつ、「クイックペイです!」と言うだけである。「ああ、QUICPayですね」と一発である。他の電子マネーと勘違いされることはない。

QUICPayでいこうかなと思いつつ、もう少し調べてみると、「EASYモバイルSuica」という選択肢もあることを知った。モバイルSuicaの、クレジットカードなしでも使える簡易バージョンで、オートチャージなどは出来ないけど、自分でチャージすれば、普通にSuicaとして使えるという。

そんなのがあったとは。以前モバイルSuicaを調べたとき、完全に見落としていた。そういうのがあるなら、それで十分じゃないか?

だが、さらに調べを進めると、EASYモバイルSuicaに、大きな弱点が発覚。

チャージが面倒。

チャージは基本的に、アプリを使って、銀行口座から振り込む形で行う。当然、その都度、ログインや、パスワード認証などが必要である。銀行は、みずほ、三井住友、三菱東京UFJ、じぶん銀行が対応しているが、じぶん銀行以外は手数料もかかる。

現金でのチャージは、コンビニ等で出来るようだが、駅の券売機や精算機は、今のところ、モバイルSuicaのチャージには対応していないらしい。

なので、残高が不足したりすると、乗り越し精算の手続きは、直接駅員さんのところにいかないといけないのだという。

電車に乗れるという強みを持ちながら、なぜ、ここまで使用をためらわせるような要素ばかりなのか。モバイルSuicaは。

JRには改善を求めたいところである。すぐに名前を「NON EASYモバイルSuica」に変えてくださいと。

野球のバッテリー

野球の用語って、そんなに深く考えずに使っていた。

野球でピッチャーとキャッチャーのことをバッテリーという。

一方、携帯電話やふなっしーを動かす電池のこともバッテリーという。

全く違うものに見えるが、同じ言葉が使われているということは、同じ語原なのだろうか。

そういえば、野球にはショートストップというポジションがあり、電気回路にも「ショートする」という言葉がある。野球の1塁からホームまでのベースを回路としたとき、ショートするのを防ぐのがショートストップ?

いや、まさか。そんな話聞いたことない。でも、じゃあなんなんだろう。

カタカナで書くと同じだけど、スペルが違うケースとかもよくあるし、英語関係のことは苦手でわからないので、ちょっと調べてみた。

バッテリーの語原には「打つ」「攻撃する」などの意味があり、転じて大砲や砲兵などを意味するらしい。

ピッチャーの投球は、相手に対する砲撃みたいなイメージなのだろうか。「ベース」なんかも戦争で使われる言葉だし、野球の用語は戦争となぞらえて決められているものが多いのかもしれない。

もともとバッテリーはピッチャーのみを指していたという。キャッチャーもそのシステムの一部という認識から、セットでバッテリーになったとみられる。

電池の「バッテリー」も同じだった。電気を放出するものという意味で、同じ「バッテリー」である。

どーんと何か放つような、繰り出すようなイメージなのかな。なんとなく、電池と野球の「バッテリー」に、共通のイメージがあるような気がした。

そして、野球のショート(ショートストップ)は「短い打球を止める」からそう呼ばれているらしいことがわかった。

電気のショートは回路に抵抗が極端に少ない「短い」状態で、そういう状態だと爆発みたいな危険なことが起こるということ。

どちらのショートも「短い」のショートだけど、特に深い関係はなかった。

ガイシャ

刑事ドラマで出てくる、被害者を表す「ガイシャ」って言葉。

被害者も加害者も「ガイシャ」じゃん。

むしろ「被」の方を強調するべきではないのか?

と思って調べてみたら、

「被疑者」との区別のために「害」の方を強調する必要があって「ガイシャ」であるという。

まあ、たしかに犯人に対して「加害者」って言わないね。

日記になぜ天気を書くのか問題

それにしても、日記を書くとき、みんななぜ天気を書きたがるのだろう。

「そりゃ、『あ~、あの雨の日か~』なんて思い出せるからじゃないの」

それなら、雨とか雪とか、そういう印象的な天気の日だけ、本文に「今日は雨だった」とか、書けばいいじゃないか。

雨が降ってなければ、晴れか曇りかなんて、そんなに気にならないじゃん。

なんか、子どもの頃からの習慣で、日記には天気を書くものだと思いこんでるんじゃないか。

外が雨でも室内で過ごした日は、印象に残らないだろうし。「日付」の次に書くほど大事なことでもないような気がする。

それなら、食べたものとか、体の調子とか、朝起きた時間とかの方が大事だと思うけどなあ。

石原10年日記

そんなわけで、「石原10年日記」を買った。


これから10年使う石原10年日記

2014年1月1日から2023年12月31日まで使える。

2014年も半分が過ぎてしまっているので、2014年の上半期の分がもったいないような気もするが、なにしろ10年使うのだから、全体を見れば使えないのは一部に過ぎない。残りの9年半を全部埋めれば、もったいないとは思わなくなるはずである。


5000円くらいしたので、僕にとって決して安い買い物ではないのだけど、なにしろ10年使うのだから、一年あたり500円くらいだし、毎年500円の日記帳を買うと思えば安いとすら言える。




さっそく書き方を決めることにした。

まず、書く時間。翌日の朝、前の日のことを思い出して書くことにする。その日の夜だと、うっかり寝てしまったら書けなくなるからである。

本文は、一日4行のスペースに書くようになっている。


なにしろ10年使うのだから、一日あたりの負担が大きいと嫌になってしまう。4行くらいがちょうどいい。

自由に書けばいいのだが、自分の中の大まかなルールとして、



  • 上の2行はその日あったこと、やったことなど、出来事や行動について書く
  • 下の2行は考えていること、悩んでいること、頭の中を占めていること、といった内面や思いについて書く
ことにした。



来年になって、今年書いたことを読み直すのは楽しみでもあるが、なにしろ10年使うのだ。10年書き続けるということは、その中に、人生のとんでもなく大きなイベントが混ざってくるはずであり、それが怖くもある。運命の出会い、
病気、身近な人の死、石化、結婚、妊娠……。自分の身に何が起こるのか、見当もつかない。


2020年の7月3日あたりに、いったい何を書くことになるのだろう。


下の方に特記事項欄。大きな出来事があったら書いておくと、あとで探しやすい。



僕はどうなってしまうのだろう。どう変わってしまうのだろう。



でも一番怖いのは、今と全く変わっていないことだったりする。

日記を書こう

3年日記とか、5年日記とか、10年日記みたいなものがある。

日記帳の同じ日付のページを、翌年も翌々年も使い回すという、ケチ根性丸出しの日記である。

ただ、これが1年以上書き続けると、面白いことが起こる。

日記を書くときに、前の年の記入欄が自然と目に入るので、ちょうど1年前や2年前の自分が何をしていたかわかる仕組みになっているのである。

「そうか、あれからもう1年か……。嘘だろ。…………はぁ。一年何してたんだろう…………あ~あ」なんてことになるのである。面白そうではないか。

数年前、そういうものがあると知ったときから、いつかやってみたい、いつか、と思っていたが、最近ようやく「やるなら早い方がいい」ということに気づいた。

早く始めた方が、その分早く「あ~あ」が味わえる!

日記というと「続く」「続かない」が問題になるが、毎日何かしら書いている僕にとって、日記を「書く」のは続ける自信がある。いままでも、日記のような雑文は、たくさん書いていて、Evernoteに放り込んである。

でも、問題は「見直す」方である。日記などを見直す習慣は全くなく、書きっぱなしになっている。

もったいない。きちんと日記を見直すことで得られるものがあるはずなのに。「そういえば、あの問題のことすっかり忘れてた」とか、「これはもう時効だろう、向こうも覚えてないだろう」とか。

書くときに自然と見直すことができるという、その日記帳の仕組みを知ったときは感動した。見直す習慣を付けるなどという不自然なことをしなくとも、書く習慣だけあればいい。「なんて画期的な!」と思った。といっても、僕が知らなかっただけで、ずっと昔からそういう日記帳はあったのだけど。




さて、始めるためには、まず日記帳を買わなければならない。調べてみると、どれも数千円はかかる。無料のやつは一つもない。

そこで頭に浮かんだのが「パソコンでできないかな?」である。

パソコンなら、あまりコストはかからないだろう。それに、手で書くより、キーボードを打つ方が速いし、字も読みやすい。

しかも、紙と違って、パソコンは検索ができる。「あれはいつのことだっけ?」と思ったとき、「あれ」を検索すれば、それを書いた日が表示される。

さらに、紙の日記の場合、5年とか10年すると、記入欄が全部埋まるので使えなくなるが、パソコンなら使用年数も文字数も無制限である。書き放題である。

データもクラウドに保存すれば失われることはあるまい。パスワードなどをつければ、人に見られずに済むというメリットもある。



調べてみると、思った通り、その手のパソコンソフトや、iPadアプリなどは存在していて、なかなか使いやすそうである。

特にiPadで使えるやつは、さすがに見た目も綺麗で、これはいいと思ったのだが、問題がある。今使っているiPadをこれから3年後や5年後も使っているという保証はないということだ。GoogleやEvernoteなどのサービスなら10年後20年後も使っていそうだが、iPad専用アプリは危険だ。

ウィンドウズのソフトは、無料のものだと、古くて見た目がいまいちだし、最新の有料ソフトでさえ、もっといいソフトが開発されて5年後10年後は古くさく感じてしまいそうだし。うちのパソコンはノートパソコンじゃないから、寝っ転がりながら書けないし。

そうやって考えていると、数年先がどうなっているかわからない以上、結局、紙の日記帳に書くのが最善であると判断した。

テクノロジーがいかに発達しようと、「見直す」ことに関しては、ぱらぱらめくれる紙の日記が最速である。

長い文章を書かずに、その日は何があった日なのかを手短に記録しておき、それを見直すという形を取りたいから、その目的なら、むしろ紙の方が適している気がする。



パソコンは断念して、紙の日記帳購入を目指すことに。

良さそうな日記帳を調べていたら、「石原10年日記」というのを見つけた。

下の方に、検索用の特記事項の欄がある。重要な出来事があったら、そこに書き入れておけば、あとで見つけやすいというものだ。これによって、「あれはいつのことだっけ?」が検索できるようになっている。紙の日記帳の弱点をカバーしている。

多少値は張るが、細やかに出来ている感じがして、長く使うならと、これにすることにした。



次回に続く……。

アイスコーヒー

最近、アイスコーヒーがおいしいと思うようになった。

「俺は夏もホットコーヒーだぜ」と通のフリをしてきたが、アイスコーヒーの魅力にも気づいてしまった。

昨今コンビニでひきたてコーヒーが売られるようになった。これがうまいと評判で、ラジオの「カーボーイ」で爆笑問題も絶賛していた。

僕もアイスコーヒーを買ってみた。ひきたての粉感があって、たしかにおいしかった。

ブラックで飲んでもおいしい、ガムシロップとミルクを入れてもおいしい。ミルクだけ入れてもおいしい、ガムシロップだけ入れてもおいしい、ガムシロップとミルクだけ飲んでもおいしい。

毎日でも飲みたいくらいだが、節約の精神で、週2くらいに制限しようと思う。

引っ越しのバイトと、今後の筋トレのこと

引っ越し屋さんのアルバイトをしているときが、過去、一番筋肉がついた時期だった。

数年前、金欠だったので、3ヶ月だけ時給のいい引っ越しのバイトをしたのだった。

きつかった。まず、朝7時集合なので、それが辛い上に、重たい段ボール箱をたくさん運ばなければならなかった。

渡される段ボールは物が詰め込まれ、ことごとく重かった。気を遣って、何も入れないようにしてくれれば楽なのに、全ての客が段ボールに物を詰め込んでいた。

明らかに引っ越しの仕事に向かない細い体だったので、ずいぶんいじめられた。怒鳴られた。「査定」で悪い評価を受け、給料も下げられた。

このハードさ。毎日はとても無理だ。

働く日は自分で決められるので、だいたい3のつく日と3の倍数の日だけ入ることにしていた。それでも、働く前日は、憂鬱だった。

もし、体調の悪い日にこんな仕事をしたら、死んでしまうか、死ななくても病院に運ばれて、入院費がかかってしまう。

休みの日も、体調管理に気が抜けなかった。気が休まらず、大きなストレスだった。

それでも3ヶ月続けた結果、すごく筋肉がついていた。

3日に一回くらいの働き方も、超回復が起こりやすく、良かったのだろう。

毎日、お腹がすいて仕方なかった。夕飯を普通に食べたあとも、お腹がすいて、「一平ちゃん夜店の焼きそば」を平らげた。

気付くと二の腕が一回り太くなっていた。鏡で自分の体を確認したら、原哲夫のマンガみたいになっていた。『北斗の拳』に出てくる人みたいだった。体重は51~52キロから、56キロくらいまで増えていた。

だが、その後、引っ越しの仕事をやめたら、『北斗の拳』みたいな体も、すっかり元の「主食ははるさめ」みたいな体に戻ってしまった。そんな筋肉は、普段の生活に必要無かったということだろう。

この経験でわかった。僕でも、ちゃんと運動とトレーニングをすれば、筋肉がつく。

食べようと思わなくても、運動すれば、勝手に腹は減る。我慢できないくらい。

体が必要としているのがわかる。だから、体を変えたければ、まずは、トレーニング。

半年トレーニングを積んで、自己最高の体重57キロを目指すつもりだ。でも、急にやめると元に戻ってしまうから、そこまで増やしたら、後戻りしないように、維持するためのトレーニングを続ける。

そんな筋肉必要ないんじゃないかと考えると、そんな気がして迷いが生じてしまうのだが、やってみて、もし体が軽く、体調が良くなれば、肉体改造は成功と言えるわけで……。まあ、とにかくやってみようと思うのだ。

野暮用どもめ! 一気に片をつけてやる!

普段生活していると、どうしても野暮用が出てきてしまう。

先日の運転免許の更新もその一つである。

こうした野暮用はなかなか手をつけにくい。本当なら、野暮用などせず、好きなことだけしていたい。

寝転がったり、寝転がりながら本を読んだり、本を読みながら寝転がったりしたい。

そこで、来週か、再来週あたりに、今残っている野暮用を全部、テンションや勢いで片付ける日を作れないかと考えている。

今残っているのは、

  • 水道料金の支払い方を、使っていないゆうちょ銀行の口座引き落としから、コンビニ払いに変更する
  • 使わなくなったPASMOを引き取ってもらう
  • スマホを買ったので、古い携帯電話を捨てる
  • 粗大ゴミのシールを買って、いらなくなったテーブルを捨てる
以上の4つが主なところである。

行動力のある人にとっては、何かの合間や何かのついでに簡単に出来てしまうことなのだけど、僕にとっては、たったこれだけのことが、とても面倒でハードルが高いことに感じられて仕方ない。四天王である。

水道料金の払い方を変えたいという気持ちは、かれこれ4~5年は持ち続けている。

一本電話をすれば済むことなのに、「ま、今日じゃなくてもいいや」と、伸ばし続けていた。

これは、気合いを入れて一気にやる時間を作るしかない。

一日で四天王を攻略する。

そして、全て終わったら「水道料金支払い方変更完了記念式典」を開こうと思う。

あいさつのあと、「記念品授与」が待っている。

記念品は、文庫本用のブックカバー。

頑張った自分へのご褒美である。

そのくらいしないと、一生、奴ら四天王は僕の頭の中をのさばるだろう。

よし、そうと決まったら、日取りを決めて準備を進めよう!

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