伊集院さんのエッセイ『のはなしし』を読んでいたら、「錯視」の話が出てきた。
「錯視」というのは、目の錯覚というやつで、同じ大きさのはずなのに、位置によって大きさが違って見えるとか、平行なはずの線が平行に見えないとか、いろいろなパターンのやつがある。
伊集院さんが特に好きだという、止まっているはずの印刷された図形が、なぜか動いているように見えるというやつは、主に北岡先生という人が研究し、制作されているのだが、僕も好きで、本も買っている。
伊集院さんは、人間の脳がそうなっているからこそ、誰にも真実が見えないという怖さと不思議さを訴えていた。よくわかる。
たまたま人間が知覚できない形とか模様の虫とか生き物がいたとしたら、それは誰にも見えないという怖さ。
ひょっとしたら、そういうものが既に世の中にはあるのに、知覚できないから、誰も気付いていないだけかもしれない。
先日僕が、姿をとらえることが出来なかった蚊も、そういうやつなのではと思ってしまう。
錯覚が起こるというのは、別に、悪いことではない。
その方が、何かしらの理由で生存に有利だからと考えられる。
例えば、有名なミュラーリヤー錯視。
2本の横棒は同じ長さなのに、上のやつの方が長く見えるというこれ。
これなどは、目がこの図形を勝手に遠近法で見てしまうために起こる。
つまり立体的にとらえ、同じ長さの横棒なのに、上の図は奧にある、下の図は手前にあると認識するから、実際よりも、長く見えたり、短く見えたりする。
これは手前と奧の距離感を、より少ないエネルギーで、より素早く判断するためのシステムで、それがあるとないでは、生存競争の結果に大きな差が出てくるものと思われる。
つまり、動物は(人間の先祖は)、進化を繰り返しながら、「間違っててもいいから、とりあえずこういう角度の線を見たら、そこから、大きさを瞬時に感じ取れ」みたいなことを遺伝子に残してきたのだろう。そうしないと、危険から逃げ遅れるかもしれない、あるいは、獲物を逃がすことになるからと。
同じように、止まっている図形が動いて見えるというのも、おそらく何かあるのだろう。
わからないけど、例えば、「こんな模様を見たら、毒蛇の可能性があるから、たとえ、動かなくても、動いているように感じて、それが生き物だと認識しなければ危険だ」とか。
そうして長い年月をかけて、錯覚であっても危険を避けたものが生き残った。いろいろ複雑な要因はあるだろうが、大まかにはそんなところじゃないかと思う。
錯覚の原因になっているものは、「間違っててもいいから、そう判断しろ。その方が生き残れる」という生物としてのシステムだと僕は認識している。
今の人類は、ほとんど全ての人が、正常に錯覚を起こせている。もちろん、実際には錯覚しようとしているのではなく、生存に有利なシステムが働いているだけで、錯覚は結果として(副作用として)起こるだけなのだけど。
にしても、錯覚する方がデフォルトで、どう頑張っても、正しく認識する方を選ぶことが出来ないというのは、何とも不思議である。
ただ、こういったことを「これは錯覚なんだ」なと、認識できるのは唯一の救いである。知性の勝利という感じがする。
もしかしたら、「錯覚なんだ」と認識できない錯覚もあるのかもしれないが、それはもはや錯覚とは呼ばれないのだろう。正しいこととして、真実として認識されるのだろう。じゃあ、「正しい」って何だ。そういうことも含めて不思議だと思う。
伊集院さんもそんな気持ちになっていたのだろうか。
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