「絶対に幸せにします」問題

「世界中の誰よりも」問題について書いたけど、

お嬢さんを僕にください的な場面での「絶対に幸せにします」も同様である。

世の中をしっかり観察していれば、「絶対」なんてほぼないことがわかる。

「絶対に」などと大きく出るのは、世の中をなめている。もしくは、世間を知らないということである。そんな人に娘を任せていいものだろうか。

もちろん控えめに「60パーセントくらいの確率で幸せにします」と言えばいいということではない。「絶対」なんてことはあり得ないのに、「絶対に」などと軽々しく言うのが不誠実なのである。

簡単に「絶対」と言うことは自分を過信して、具体的、分析的な思考を放棄しているということである。幸せにできない可能性を考えることから逃げているということである。

どんな人にも弱点はある。その弱点が、相手を傷つけるかもしれない。不幸にするかもしれない。自分は悪くなくても、何か不幸な事故があるかもしれない。それを考えれば「絶対」に人を幸せにできる人などこの世にはいないことがわかるはずだ。

誰であっても、絶対なんて無理だ。だからこそ、用心しなければならないし、頑張らなければならない。

無責任に「絶対」という偽りの言葉を振りかざさず、「絶対とは言えないけれど、少しでも幸せを感じてもらえるように、傷つけないように、最善を尽くします」と言う方が誠実なのである。

個人的には、「幸せにする」というのも引っかかる。

「大切にする」なら自分の気持ち次第だが、「幸せにする」は、それを受ける側に依存する。自分がいくら頑張っても、相手が受け取らなければ幸せにはできないのである。

つまり、幸せとは主観的なものであるから、感じるためには、幸せを感じることにおける本人の成長が不可欠で、つまり本人次第なのである。自らを幸せにする努力をおろそかにして、一方的に幸せにしてもらうことを期待するのも、幸せでないことを相手のせいにするのも、自ら幸せを遠ざける行為なのである。

パートナーに対し、そのための手伝いとか、協力をするという意味で「幸せにする」というのならいいが、主に経済力でもって、楽をさせることを「幸せにする」いうのなら、長い目で見たとき、そのツケを払わなければならなくなる。例えば、楽に慣れた分、衰えた忍耐力が、少しの困難な状況に対しても不満を抱かせ、お互い相手のせいにして、傷つけあうといったような形で。

幸せになりたいなら、結婚相手を幸せにしたいなら、幸せの本質をつかんで、幸せを感じる技術を身につけるべきなのである。それは例えば、「こういうときは、こう考えるといい」みたいな思考の訓練だったり、もっと実践的な生きる知恵だったり。何にしても、個人としての成長が不可欠で、それには男女も年齢も関係ない。全ての人に当てはまるものだと思う。



余談だけど、レヴィ=ストロースを学んでいたら、「男は他の男から譲り受ける形でしか、女を手に入れることが出来ない」という衝撃的な考察に行き当たった。

そんな、これだけ男女平等が叫ばれている世の中なのにと、否定したい気持ちもありつつ、確かにそうなのだろうとも思う。僕みたいに優しい男ばかりじゃない。力尽くでも女を得ようとする男がいる。女性は必然的に守られる立場になる。それは男女が身体的に違うという段階で、遺伝子レベルで刻まれている感覚なのかもしれない。

この国でも、結婚するときは「お嬢さんをください」と父親に許可を求めることが通例である。

形式的なことだとしても、なんとなく、僕には、それがいいあり方だと思えない。本当に、男女平等の世の中であって欲しいと思っている。結婚の際、父親の許可など必要なく、当人同士で勝手に決められるのが当然であって欲しい。(もちろん、親の気持ちをないがしろにしていいという意味ではない。意見は聞くけれど、あくまで、決めるのは本人だということ)

僕が、もし結婚することになったら、「お嬢さんをください」とは言わずに、「○○さんと結婚します。よろしくお願いします」と言おうかなと、ふと思った。

許可を取るとか、許してもらうとか、もらうとか、奪うとか、そういうことではないという考え方であることを示したい。物じゃないのだから。

いつか、「お嬢さんをください。絶対に幸せにします」が過去の物になって、「○○さんと結婚します。よろしくお願いします」と言うのが、この国の常識になったら嬉しい。

それと、結婚後の名字も、まだ一般的には女が男の方に変わることが多いが、法律的には、どちらか好きな方みたいな感じになっているはずなので、「家」とか関係なく、できれば相手側の名字を採用したい。例えば「堀北佑陽」になりたい。

0 件のコメント:

人気の投稿