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「note」を始めます

どうも僕には責任感が強すぎるきらいがある。まじめでクールすぎる。

「始めたら最後までやるべき……」「人に見せるなら、完璧なものを……」



もっと無責任でちゃらんぽらんでもいいんじゃないか。

人の生き方なんて、自由なのだから。

きっとその方が楽だ。



ここはひとつ、ちゃらんぽらんになるための訓練を日々欠かさず行いたい。

勢いで始めたけど、途中で飽きて勝手に辞めてしまったり、そんなことばかりでもいいから、自由に、思いのままに何かやろう。

もっと自由に文章を書いたり、いろいろやって、報告したりできる場所を持ちたい。



前から気になっていた「note」というサービスがそれに適しているような気がした。

テキスト、画像、音声、動画を自由に投稿出来るサービスである。ブログにも似ているが、印象としてはツイッターに近い。140文字のつぶやきも投稿できるし、フォロー、フォロワーのシステムもある。本当にツイッターの発展版という感じだ。

ツイッターのいいところは「気軽さ」だと思う。出来の良さなど気にせず、思ったことを気軽に書きこむ。

そう。そのくらいの気軽さで、僕も自分の「note」を作っていけばいい。

思いついたことをすぐ形に出来る。そういうハードルの低さをnoteは提供してくれている。見た目も綺麗でとてもいい。直感的にこれだと思った。



季節もちょうど春。新しいことを始めるにはちょうどいいではないか。

そんなわけで「note」を始めてみることにしました。



いま申し上げたようなコンセプトですので、本当に「実験所」みたいな感じになると思います。面白さの保証はできませんので、見に来ないでください。

原点回帰

子供の頃、誰に頼まれるわけでもなく、勝手にマンガを描いては人に見せたりしていた。それも膨大な量である。

内容はともかく、創作がごく自然にできていた。

創作に苦しむようになった今から思うと、あれは一体なんだったのだろう。

子供の頃の方が今よりも創作能力において優れていたわけではないはずである。知識も発想力も今の方が上だ。

となると、能力が衰えたわけではなく、気ままに好き勝手にという、それこそ子供の心が無くなったのだ。

作ることへの抵抗が強まった。つまり、自分に求める作品のレベルが上がった、ハードルが高くなったということだろう。




昔の僕は、思いつくままに、とにかくなんでもすぐに取りかかった。その結果、すぐ飽きて投げ出すことも多かった。いや、ほとんどすぐに投げ出していた。その中で、まれに完成まで続くものもあった。

マンガの本を何冊も作ったけど、それは飽き性の僕がたまたま続けられただけのこと。マンガの本を作ろうという強い決意が始めにあったわけではない。

やりたいことをやっていただけ。何も考えていなかったけど、楽しかった。



その原点に帰ってみたい。

無計画にどんどん取りかかってみる。

思いついたことはすぐにやってみる。

内なる批判者を黙らせて。

ひょっとしたらそのやり方が僕には合っているのではないか。

最近の悩み~表現者のジレンマ~

僕も、あわよくば自分を表現することで食べていけないかと考えている人間である。

マンガ、映画、本、ゲーム……いろいろな表現で幸せをもらってきた。僕も何か作って恩を返したい。そのための自由な時間や環境が欲しい。そのためにもお金は欲しい。

だが、表現するということは、いわば「出しゃばる」ことである。

それで食べていくなど、虫のいい話でもある。その権利が自分にあるのか……。僕はいい虫を食べてもいいのか……。

そんな気持ちが心の奥にあって、それが自分の創作活動の足かせになっている。もしくはハードルを高める原因になっている。

「つまらんものを世に送りだしたら、ひんしゅくを買うぞ、なんだかんだで射殺だぞ」

と、気楽に創作に打ち込めなくなっているのである。



特にネットの世界には、お金を得るためにたくさんの広告を貼り付け、「質より量!」と、欲望を煽るキーワードを大量にねじ込んだサイトやブログも乱立している。

それらは別に、表現活動というわけではないだろうが、醜いなと思う。お金が欲しい気持ちはわかるだけにやるせない。

そういうものに出会うたび、僕はそんなことしたくないなあとか、僕だけはせめて純な気持ちでブログを書きたいなどと思う。

「何をかっこつけている。お前がやろうとしていることはそれと何が違うんだ?」

横やりが入ってくる。

自分はそいつらとは違う! いや、同じか……、同じだとして何が問題? 嫌われること?

人を不愉快にしたくない?

そう。人にイヤな思いをさせてまでお金を得ようなどということは、僕にはできない。

人を不愉快にしないためには何もしないほうがいい?

だが、表現をしなければ僕の夢は頓挫する。

質がよければ……、でも、質を高めるためにも量は必要では? 

それに、お金を得るにはなんであれ量産した方が有利だ。質を落としてでも量を増やすことを考えた方が得だぞ!

しかし、質の悪い物をこれ以上、この世に増やすなど、僕のやるべきことか? 僕のやりたいことか?


――いろいろな考えが頭を巡る。



表現で食べていくなんて、おこがましくてわがままなことかもしれない。

その道を選択することは、自分がそのわがままを通すほど価値のある人間であることを自分からアピールしなければならない。

その図々しさは、人を不愉快にさせる可能性を十分に孕む。

表現はしたい。でも人を不愉快にさせたくない。

このジレンマが僕の中には常にある。

最近まで、それほど強く意識していなかったことである。自分の筆が思うように進まない理由を考えていたら、そこに思い至った。



これから少しのあいだ、この問題について、じっくり考えてみようかなと思っている。

人の気持ちを考えられることはいいことだと思うのだ。だから、無理にそのジレンマを捨てる必要はないと思う。だけど、その中で表現の質と量のバランスの基準とか、表現でお金をもらうことに対する考え方とかがはっきりすると、僕の中で何か吹っ切れるのではないかと思う。

「魔法」について

アニメやゲームの世界では「魔法」がよく出てくる。

「『魔法』が普通に存在する世界」などというキャッチコピーもよく目にする。


でも、僕が思うに、もし本当に魔法が普通に存在する世界があったら、おそらくそれは、「魔法」とは呼ばれない。


今、地球で暮らしている我々が思う科学や、物理の常識から逸脱した、不思議なことが「魔法」と呼ばれるのであって、それが普通にあるのなら、それは、科学や物理の範疇になる。どんな不可解な現象であれ、何度も再現可能であれば、それは、「そういうものだ」と認められることになり、「魔法」という概念にくくられることはない。一つの「現象」と見なされる。


例えば「磁石」は不思議な動きをするけど、別に「魔法石」とは呼ばれていない。磁石は「実際に存在する」から、だれも魔法だと思っていないのである。


アニメやゲームに出てくる魔法も、もし本当に存在していたら、誰も魔法だとは思わない。


これは、つまり、言葉の使い方の問題だ。


物語を作るとき「よし『魔法』が出てくる話にしよう」と考えている人は、少し、そのことを考えて「魔法」という言葉をすぐ採用せず、オリジナルの概念を作ってみるなどすると、独特な世界観が生まれてよいのではないだろうか。

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