僕も、あわよくば自分を表現することで食べていけないかと考えている人間である。
マンガ、映画、本、ゲーム……いろいろな表現で幸せをもらってきた。僕も何か作って恩を返したい。そのための自由な時間や環境が欲しい。そのためにもお金は欲しい。
だが、表現するということは、いわば「出しゃばる」ことである。
それで食べていくなど、虫のいい話でもある。その権利が自分にあるのか……。僕はいい虫を食べてもいいのか……。
そんな気持ちが心の奥にあって、それが自分の創作活動の足かせになっている。もしくはハードルを高める原因になっている。
「つまらんものを世に送りだしたら、ひんしゅくを買うぞ、なんだかんだで射殺だぞ」
と、気楽に創作に打ち込めなくなっているのである。
特にネットの世界には、お金を得るためにたくさんの広告を貼り付け、「質より量!」と、欲望を煽るキーワードを大量にねじ込んだサイトやブログも乱立している。
それらは別に、表現活動というわけではないだろうが、醜いなと思う。お金が欲しい気持ちはわかるだけにやるせない。
そういうものに出会うたび、僕はそんなことしたくないなあとか、僕だけはせめて純な気持ちでブログを書きたいなどと思う。
「何をかっこつけている。お前がやろうとしていることはそれと何が違うんだ?」
横やりが入ってくる。
自分はそいつらとは違う! いや、同じか……、同じだとして何が問題? 嫌われること?
人を不愉快にしたくない?
そう。人にイヤな思いをさせてまでお金を得ようなどということは、僕にはできない。
人を不愉快にしないためには何もしないほうがいい?
だが、表現をしなければ僕の夢は頓挫する。
質がよければ……、でも、質を高めるためにも量は必要では?
それに、お金を得るにはなんであれ量産した方が有利だ。質を落としてでも量を増やすことを考えた方が得だぞ!
しかし、質の悪い物をこれ以上、この世に増やすなど、僕のやるべきことか? 僕のやりたいことか?
――いろいろな考えが頭を巡る。
表現で食べていくなんて、おこがましくてわがままなことかもしれない。
その道を選択することは、自分がそのわがままを通すほど価値のある人間であることを自分からアピールしなければならない。
その図々しさは、人を不愉快にさせる可能性を十分に孕む。
表現はしたい。でも人を不愉快にさせたくない。
このジレンマが僕の中には常にある。
最近まで、それほど強く意識していなかったことである。自分の筆が思うように進まない理由を考えていたら、そこに思い至った。
これから少しのあいだ、この問題について、じっくり考えてみようかなと思っている。
人の気持ちを考えられることはいいことだと思うのだ。だから、無理にそのジレンマを捨てる必要はないと思う。だけど、その中で表現の質と量のバランスの基準とか、表現でお金をもらうことに対する考え方とかがはっきりすると、僕の中で何か吹っ切れるのではないかと思う。
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