ひねくれ者

「命は大切」と、何千何万回言われるより、一度でも「あなたが大切」と誰かに言われれば、それだけで生きていける、みたいなコマーシャルが昔あったと思う。

僕はとてもひねくれているので、そんなのわからないじゃんと言いたくなってしまう。

何千何万ということなので、仮に1万回として、何かの集会で、強制的に1万回「命は大切」と、聞かされ続けることになったとしよう。もちろんそれは、大勢に向けて発せられた言葉で、ひょっとしたら、たいして心もこもっていないものだとしよう。だとしても、1万回は何日かかるかわからないほどの相当な数である。聞いているうちに、マインドコントロール的な効果で、1回だけ「あなたが大切」と言われただけの人より、命の重さ、大切さを強く認識したり、感じたりして、自分の命も、誰かの命も大切にしようと思うようになっても不思議ではない。「自分はツイている」と言い聞かせていると、脳はその理由を勝手に探す。だから普段から、自分に対して、よい言葉を投げかけることが、大事だとよく言われている。1万回の「命は大切」でも同じようなことがあるのではないか。

実際、試したわけではないし、そんな集会には参加したくないけど、可能性は十分だと思う。

「そんな屁理屈を。あのコマーシャルのコピーだって、実際に1万回言われる場合と比べてどうこうってわけじゃないだろ、意図をちゃんと汲み取れよ」と思うかもしれない。

もちろん分かっているけど、僕としては、どうも「これが正しいんだぜ」と言わんばかりに道徳的な事柄を説かれると、必ずしもそうではないことを示したくなる。簡単に「そうですよねえ、いい言葉ですねえ」と納得するのは、なんだか悔しい。断定的に言われるほどその気持ちは強くなる。正しさなんて、絶対的じゃないのだから、すぐに決めつけてかかる人とか、自分こそは正しいんだと思い込んで生きている人への警戒心が強いのだ。自分で考えてから納得したい。

そのためには、方法的懐疑ということで、いったんその言葉を疑う。

その結果、今回のように、的外れにも見える反論も出てくるのだが。

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