写真

多くの人が、日ごろから、写真などを撮っているが、一体何のためにやっているのだろう。

みんな写真で自分の姿を見るのがイヤじゃないのだろうか。

僕の場合、自分の写真はほとんど残っていない。友達がいなかったので、撮ってもらう機会もなかったし、人の写真を撮るのも「撮っていいですか?」などと聞けなかったので、ほとんど撮っていない。だから、僕の手元には一人で出かけた時に撮った、建物や風景、実家のふすま、完成したパズルなど、人物の写っていない写真がわずかにあるだけだ。

保育園児だったころ、僕はほぼ100パーセントの確率で、集合写真を撮られるとき、目をつぶっていた。日光に弱いため、まぶしさに耐えられなかったのだろう。なぜ、写真を撮るとき、まぶしい方をいつも向かされるのかと、腹が立って仕方なかった。

いつも同級生から「また目つぶってる~」と冷やかされていた。それが悔しくて、次こそはと思っていると、眉毛だけ一生懸命に上げながら目をつぶった僕の顔が現像されて出来あがってくる。

「あ、俺また目つぶってる、ははは」と無理におどけてみせたが、心の中は、そうしている自分に対しても、悲しさと悔しさでいっぱいだった。

小学校の卒業写真は、かろうじて半目を開けているが、広げようという意識が、鼻の穴にまで及んでいる。

写真で見る僕はいつも醜く、人の目にはこんな風に見えているのかと落ち込み、なぜ、みんなこんな醜い人間に対して、やさしくしてくれるのか理解に苦しんだ。それは、突き詰めれば、美しいものばかりを愛そうとする自分の醜い心の投影、映し鏡でもあって、何にせよ、見れば見るほど、自信をなくすものでしかない。

僕にとって、自分の写真を見ることは、自分の醜さを確認するためのものでしかないように思え、これまで積極的に残したりしなかったし、これからも、焼いた餅がぷくーっと膨らんでいるところの写真以外撮らないことにしようかとも思うほどだ。

だから、たくさんの写真を撮る人というのは、どういう気持ちで撮っているのか、想像しがたい。思い出に浸るのが好きなのだろうか。やはり、誰かと出かけても、気疲ればかりで心から楽しんだことのない僕と違って、「この時は楽しかった」と言える思い出がたくさんあるのだろうか。自信があるのだろうか、幸せなのだろうか。いずれにしても僕とはちょっと違う性質を持っている人に見える(僕の方が少数派なのだろうけど)。

そう考えると、人を見るとき、その人が、写真が好きかどうかという点で見ると、その人を、特に自意識とか自信の部分を知る手掛かりになりそうな気がする。

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