昨日の個人総合の話。
内村とベルニャエフの死闘。個人総合は内村が世界でも圧倒的な力を持っていると思っていたが、それは一昔前の話だった。ベルニャエフは、ほぼ完璧な演技を続ける内村をすんでの所まで追い詰めた。とんでもない実力者である。
内村の最後の鉄棒と、結果が出たあと抱き合ってお互いたたえ合う姿に感動した。
今回のオリンピックの満足度の高さ。団体でも金メダル取れたし、個人総合も最高のものが見られた。こんなに上手くいきすぎていいんだろうかとすら思ってしまう。
で、そのあと、海外記者が内村に「あなたは審判に好かれているのでは?」という質問をして、「そんなことはない、みんな公正に審査してもらっている」と答え、その質問にベルニャエフが「いままでのキャリアでも内村はいつも高得点を出している、無駄な質問だ」と一蹴したという。そのことに対して、ベルニャエフのスポーツマンシップを賞賛する声が相次いだ。
僕は、メダルの色が決まったあと、二人が肩を組んで並んで立っている姿を見て、結果をどう思っているのか十分わかった。そういう意味では確かに無駄な質問かもしれない。
だけどね、その質問をした記者を責めるような意見を言う人が多いのが僕にはわからない。
その質問はまっとうなものだと思う。あの状況でその質問は、記者として当然の仕事なのだ。
0.1に満たないわずかな差で内村が上に立った。そこまでできすぎた結果だと、そうなるように審判がベルニャエフの鉄棒を厳しく採点したのでは? 審判が意図的に内村を勝たせたのでは? とか、思う人も多くいるだろう。
そう思う人を「そうじゃなかったんだ」「審査は正しかったんだな」と思わせるためにはどうしたらいいか。「そう思っている人がいると思うけど、どう思う?」と本人に直接聞くことだ。
記者だって、内村が「たしかに点数がおかしいと思いました」とは言わないことはわかっている。だからこそできる質問だ。実際、ベルニャエフに聞くにはデリケートな質問だから、内村の方に質問している。ベルニャエフが割って入ったことは、記者としては我が意を得たり、という感じだったのだろう。
記者の人も、この二人の戦いを讃えたいのだ。だからこそ、得点の正当性について、変なわだかまりが残らないようにしたい。この美しい戦いを、「疑惑の判定」みたいな余分なもので汚したくない。だから失礼を承知でその質問をしたのだと思う。
わかってないから質問したのではない。わかっていない人にわからせるために質問したのだ。
というのは、僕の希望的妄想だが、結果的に記者はいい仕事をしたと思う。だから記者を悪く言うのはやめてほしいのだ。
「そんなことわかってるよ、わかった上で、ベルニャエフの良さを引き立たせるために記者をやじってるんだよ」ということなのかもしれないが、そこまでは僕も読み取れない。
何というか……、体操って、個人競技というか、直接戦う競技じゃないから、お互いをリスペクトしたり、認め合ったりしやすい感じでいいよね。
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