タイトルは、「シルヴィ・バルタン」と同じイントネーションで読んで欲しい。
ずっと前の話。
テレビをチラ見していたら、(たぶんEテレだと思うけど)子供たちの社会科見学か体験学習かわからないが、その様子が紹介されていた。チラ見しただけなので、何の仕事だったかわからない。農作業かなんかだと思う。
そのホストであるところのおじさんが、子供たちを集めて話をしている。
紙に「働らく」と書き、
「『はたらく』という字はこういう風に書くでしょ。でも『はたらく』って言葉の意味は傍を楽にする。自分の周りにいる人たちを楽にするから『はたらく』っていうんだよ」
それを見て、僕は思った。
「はたらく」は「働く」と書くのであって、「働らく」ではない。もうその時点で、それが気になって、おじさんが何を言っても説得力を感じない。何を言おうが、「働く」が書けない人の言うことじゃないか。
もちろん、送り仮名が違うくらいで、言っている内容まで否定するのはおかしいのはわかる。それはそれだろと。
でも、そういうことってある。ドラマを見ていて、もしガンマイクの影が画面に思い切り映り込んでいたら、急に冷めてしまうように。
僕たちの真実は、内容ではなく、どのように伝えられるかによって決まっているという側面があるのだろう。
ネットカフェで、『よつばと』というマンガをちょっと読んでみた。このマンガはよつばちゃんたちが引っ越してくるところから始まる。
でも、その引っ越しの絵を見て、いきなりがっかりというか、うんざりというか、なんだこれはという気分になってしまった。
そこに描かれている引っ越し業者の動きはめちゃくちゃだった。僕は引っ越し屋でバイトをしたことがあるので、引っ越しの流れを理解している。
なぜ、段ボールを運んでいる人がいるのに、運転席に人が乗っているのか。一体こいつは何をやっているんだ。サボっているのか。それとも、まだ降りる前なのか? だとしたら、段ボールを運んでいるのはおかしい。まず先に家具を運び、あとで段ボールだろ。
一応、そろそろ作業が終わりそうなので、残りは他の人に任せて、運転手は伝票の記入をするところ、ということで無理矢理納得した。
そんなことが気になって仕方なく、そのあとの内容にまったく集中できなかった。
結局、そのときは『よつばと』の第一巻を最後まで読むことなく挫折した。いつか、再挑戦してみたいと思っている。
そういうことがあるから、作り手側はたくさん勉強が必要で、本当に大変なのである。それを思うと、僕も作り手側の一人として憂鬱になる。
「働らく」と書いていたおじさんの社会見学が終わったあと、子供たちは、学校で感想文を書かされるに違いない。
中には、僕と同じように「働らく」を見て、「違うなあ」と、そのあとの内容を話半分にしか聞けなかった子もいるかもしれない。
でも、そんな子もおそらく感想文には「はたを楽にするからはたらくというという話が良かった。勉強になった」とか書くんだろうなと思う。それがこの国の子供である。
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