添加物

食べ物についていろいろ書物を調べていると、食品添加物に気をつけろという話がよく出てくる。

食品添加物ってどうなんだろう。

そんなに悪いのだろうか。

例えば、たばこを吸う人がいる。

たばこは百害あって一利なしとか言われるくらい、体に悪いものだと言われている。でも、たばこを吸っている人は、結構みんな元気そうである。

食品添加物も同じようなものなんじゃないだろうか。

みんな神経質になり過ぎなのではないか。

たばこよりも害が大きいというなら、考えなきゃだけど。

錯視

伊集院さんのエッセイ『のはなしし』を読んでいたら、「錯視」の話が出てきた。

「錯視」というのは、目の錯覚というやつで、同じ大きさのはずなのに、位置によって大きさが違って見えるとか、平行なはずの線が平行に見えないとか、いろいろなパターンのやつがある。

伊集院さんが特に好きだという、止まっているはずの印刷された図形が、なぜか動いているように見えるというやつは、主に北岡先生という人が研究し、制作されているのだが、僕も好きで、本も買っている。

伊集院さんは、人間の脳がそうなっているからこそ、誰にも真実が見えないという怖さと不思議さを訴えていた。よくわかる。

たまたま人間が知覚できない形とか模様の虫とか生き物がいたとしたら、それは誰にも見えないという怖さ。

ひょっとしたら、そういうものが既に世の中にはあるのに、知覚できないから、誰も気付いていないだけかもしれない。

先日僕が、姿をとらえることが出来なかった蚊も、そういうやつなのではと思ってしまう。



錯覚が起こるというのは、別に、悪いことではない。

その方が、何かしらの理由で生存に有利だからと考えられる。

例えば、有名なミュラーリヤー錯視。



2本の横棒は同じ長さなのに、上のやつの方が長く見えるというこれ。

これなどは、目がこの図形を勝手に遠近法で見てしまうために起こる。

つまり立体的にとらえ、同じ長さの横棒なのに、上の図は奧にある、下の図は手前にあると認識するから、実際よりも、長く見えたり、短く見えたりする。

これは手前と奧の距離感を、より少ないエネルギーで、より素早く判断するためのシステムで、それがあるとないでは、生存競争の結果に大きな差が出てくるものと思われる。

つまり、動物は(人間の先祖は)、進化を繰り返しながら、「間違っててもいいから、とりあえずこういう角度の線を見たら、そこから、大きさを瞬時に感じ取れ」みたいなことを遺伝子に残してきたのだろう。そうしないと、危険から逃げ遅れるかもしれない、あるいは、獲物を逃がすことになるからと。



同じように、止まっている図形が動いて見えるというのも、おそらく何かあるのだろう。

わからないけど、例えば、「こんな模様を見たら、毒蛇の可能性があるから、たとえ、動かなくても、動いているように感じて、それが生き物だと認識しなければ危険だ」とか。

そうして長い年月をかけて、錯覚であっても危険を避けたものが生き残った。いろいろ複雑な要因はあるだろうが、大まかにはそんなところじゃないかと思う。



錯覚の原因になっているものは、「間違っててもいいから、そう判断しろ。その方が生き残れる」という生物としてのシステムだと僕は認識している。

今の人類は、ほとんど全ての人が、正常に錯覚を起こせている。もちろん、実際には錯覚しようとしているのではなく、生存に有利なシステムが働いているだけで、錯覚は結果として(副作用として)起こるだけなのだけど。



にしても、錯覚する方がデフォルトで、どう頑張っても、正しく認識する方を選ぶことが出来ないというのは、何とも不思議である。

ただ、こういったことを「これは錯覚なんだ」なと、認識できるのは唯一の救いである。知性の勝利という感じがする。

もしかしたら、「錯覚なんだ」と認識できない錯覚もあるのかもしれないが、それはもはや錯覚とは呼ばれないのだろう。正しいこととして、真実として認識されるのだろう。じゃあ、「正しい」って何だ。そういうことも含めて不思議だと思う。

伊集院さんもそんな気持ちになっていたのだろうか。

夏の恐怖体験

原付バイクで走行中、前方で、手押しのカートを転がしているおばあさんが道を横切ろうとしている感じだったので、止まって待つことにした。

すると、おばあさんは、その細い足で、ひょいひょいと、走り出した。

意外だった。ずいぶんなお年の方だったと思う。背中も曲がっているし、走りそうには見えない雰囲気だった。だけど、しっかり地面を蹴って、腿を上げて走り出したのだ。

急いで渡ろうとしてくれているのだろうか。この炎天下、そんなお年の人を走らせることに、多少申し訳ない気持ちにもなった。

ところが、道の真ん中あたりに来たところで、そのおばあさんが前に進まなくなった。

カートにつかまったまま、その場で、ぴょんぴょんと跳んでいるだけで、壁に向かって走っているゲームのキャラクターみたいに、前に進んでいないのである。

そして、こっちを見て笑っていた。

怖い。

何?

とりあえず、会釈をして、おばあさんの後ろ側から通った。

怖かった。何か呪いをかけられた気分だった。

シュタインズゲート

 『シュタインズゲート』のアニメシリーズを全話見終えた。

いやあ、これも面白かった。

ここ最近見たものの中で一番面白かった。

これは、バンダイチャンネルではなく、DVDレンタル。

ゲームが原作らしいが、タイムマシン、過去改変を扱いながらも、リアリティを持たせる描き方で、引き込まれる内容だった。

侵略!イカ娘

バンダイチャンネル。『コードギアス』のあとは『侵略!イカ娘』を見ることにした。

思いの外、面白い。かなり気に入った。

これを作ったのが自分ではないのが、悔しいくらいである。

主人公が特殊な力を持ち、世界を意のままにしようとするあたりは、『コードギアス』と同じである。予想外のことが起きて、それがうまく行かなくなって悩んだりする点でも『コードギアス』と共通する。

ぜひ『コードギアス』のルルーシュを見たあとで、同じく大きな野望を持つ主人公としての「イカ娘」を見て欲しい。落差がすごいから。

目が覚めて、気づいたら、耳元を蚊が飛んでいる甲高い音が聞こえる。

手の甲を刺されていた。

鳴り止むことなく、蚊の羽音は聞こえている。

時計を見ると、朝4時だった。外は薄明るい。

気になるので、いったん電気をつけて、あたりを見回してみる。

部屋には壁をはじめ、棚、布団、iPad、僕の肌など、白いものが多いので、蚊がいれば、発見しやすくなっている。だが、飛んでいる蚊の姿は発見できなかった。

あわてて起きて、キンチョールを探してきて、周辺に散布した。

しかし、くたばったようすも、「ギャー、苦しい」などの悲鳴もなく、その後も飛んでいる音ばかりが聞こえる。

そしてやはり、姿を目でとらえることはできない。

プーンと飛んでいる音は確かに聞こえるのだ。

でも、どこを探しても、姿が見えない。

棚の置いてあるあたりから音が聞こえるが
、中身をいったん出してみたりしても、姿は見えない。

1時間くらい、姿の見えない敵と格闘した。神経はすっかり衰弱してしまった。

だんだん、自分の耳がおかしいのではないかとか、疑い始めた。

何かその辺に置いてあるパソコンとか、マルチタップとか、冷蔵庫とか、蚊の音製造機とかの機械の音を、蚊の音だと思いこんでいるのかもしれないと、考え直し、消灯して、再び床に就く。

すると、また、大きな音で、明らかに蚊の羽音が聞こえてくる。

当然、電気をつけても、姿は見えない。


進化の果てに、どうやら、ついに透明の蚊が現れたらしい。

おかげで睡眠が満足にとれなかった。

再配達

朝、電話がかかってきた。

配達屋さんからだった。

最近留守がちで、宅配物が受け取れないことが多かったので、催促というか、いつ届けたらいいかということだった。

その荷物は、時間指定して届けてもらったけど、昼寝をしている時間とかぶってしまい、いたにもかかわらず、受け取れなかったものだった。

そのあとは、なかなか忙しい日が続いていて、今日も3時から5時くらいの間なら家にいるけど、それ以外は出かけている予定である。

なので、「4時くらいならいますけど」と伝えたら

「あのね、4時くらいってのはないんですよ。2時から4時、4時から6時……」

知ってるよ、もしくは知らないよ。

僕は、自分の都合を伝えただけだもの。

そのあたりの融通を利かせてくれるための電話じゃないの?

何というか、電話までかけてきてそれか。通常の再配達の申し込みフォームだと合う時間がないから、たまたま、家にいる時間に届けてもらえる可能性があると思って、こっちは、再配達の申し込みをあえてしていなかったけど。

ちょっとがっかり。

それならいいやと別の日にしてもらった。

雨に打たれて

醤油を切らしていたので、駅の方まで買い物に行った。

買い物を済ませて帰ろうとしたら、外は土砂降りの大雨。

とりあえずスーパーから駅まで移動。

ほとんどの人は駅で立ち往生していた。

僕は傘も持っていなかった。

ただ、駅と外の境目の屋根の下で、スマートフォンを左手に持って、右の人差し指でいじっているたくさんの人たちを見ているうちに、なんだか、イライラに近い感情がわいてきた。

「この軟弱者どもめ! この程度の雨が何だ! 俺が手本を見せてやる!」

と、大きな声で叫ぼうかという勢いで、僕は、雨の中に飛び出して、堂々と歩いた。走ったり、頭をかばったりはしない。雨など降っていないかのように歩いた。

実際、気にしなければ、なんてことはない。ただの水じゃないか。服も俺も、洗濯や風呂でどうせぬれるのだ。今ぬれても同じことだ。スマートフォンだって、こういうときのための防水だろう。

どうだ、見たか、この男らしさ! 俺の「早く帰りたい」という純粋な気持ちは、この程度の雨に左右されるものではないのさ。

それで15分くらい歩いて、さっき、家に帰ってきた。ズボンは水を吸ってだいぶ重くなっていた。服を脱いでシャワーを浴びた。

シャワーから上がり「わかったか、駅の連中よ。雨が止むのを待っていたら、いつまでも帰れないぞ」と思いながら、外を見たら、雨は止んでいた。

コードギアス

バンダイチャンネル加入後、アニメを少しずつ見ていこうと思っていたが、案の定、見過ぎてしまっている。

『コードギアス反逆のルルーシュ』を見始めたら、面白くて止まらなくなった。寝不足注意とレビューにも書かれていたが、「R2」まで全50話、一気に見てしまった。

見過ぎには気をつけねばと思っていたのに、早くもこれである。

でも、面白かったので、全く悔いはない。見ておいて良かったと心から思う。

評論家ではないので、内容について語ったりするのはやめておこう。長くなるし。

ロイドさんとラクシャータさんが好きです。

「絶対に幸せにします」問題

「世界中の誰よりも」問題について書いたけど、

お嬢さんを僕にください的な場面での「絶対に幸せにします」も同様である。

世の中をしっかり観察していれば、「絶対」なんてほぼないことがわかる。

「絶対に」などと大きく出るのは、世の中をなめている。もしくは、世間を知らないということである。そんな人に娘を任せていいものだろうか。

もちろん控えめに「60パーセントくらいの確率で幸せにします」と言えばいいということではない。「絶対」なんてことはあり得ないのに、「絶対に」などと軽々しく言うのが不誠実なのである。

簡単に「絶対」と言うことは自分を過信して、具体的、分析的な思考を放棄しているということである。幸せにできない可能性を考えることから逃げているということである。

どんな人にも弱点はある。その弱点が、相手を傷つけるかもしれない。不幸にするかもしれない。自分は悪くなくても、何か不幸な事故があるかもしれない。それを考えれば「絶対」に人を幸せにできる人などこの世にはいないことがわかるはずだ。

誰であっても、絶対なんて無理だ。だからこそ、用心しなければならないし、頑張らなければならない。

無責任に「絶対」という偽りの言葉を振りかざさず、「絶対とは言えないけれど、少しでも幸せを感じてもらえるように、傷つけないように、最善を尽くします」と言う方が誠実なのである。

個人的には、「幸せにする」というのも引っかかる。

「大切にする」なら自分の気持ち次第だが、「幸せにする」は、それを受ける側に依存する。自分がいくら頑張っても、相手が受け取らなければ幸せにはできないのである。

つまり、幸せとは主観的なものであるから、感じるためには、幸せを感じることにおける本人の成長が不可欠で、つまり本人次第なのである。自らを幸せにする努力をおろそかにして、一方的に幸せにしてもらうことを期待するのも、幸せでないことを相手のせいにするのも、自ら幸せを遠ざける行為なのである。

パートナーに対し、そのための手伝いとか、協力をするという意味で「幸せにする」というのならいいが、主に経済力でもって、楽をさせることを「幸せにする」いうのなら、長い目で見たとき、そのツケを払わなければならなくなる。例えば、楽に慣れた分、衰えた忍耐力が、少しの困難な状況に対しても不満を抱かせ、お互い相手のせいにして、傷つけあうといったような形で。

幸せになりたいなら、結婚相手を幸せにしたいなら、幸せの本質をつかんで、幸せを感じる技術を身につけるべきなのである。それは例えば、「こういうときは、こう考えるといい」みたいな思考の訓練だったり、もっと実践的な生きる知恵だったり。何にしても、個人としての成長が不可欠で、それには男女も年齢も関係ない。全ての人に当てはまるものだと思う。



余談だけど、レヴィ=ストロースを学んでいたら、「男は他の男から譲り受ける形でしか、女を手に入れることが出来ない」という衝撃的な考察に行き当たった。

そんな、これだけ男女平等が叫ばれている世の中なのにと、否定したい気持ちもありつつ、確かにそうなのだろうとも思う。僕みたいに優しい男ばかりじゃない。力尽くでも女を得ようとする男がいる。女性は必然的に守られる立場になる。それは男女が身体的に違うという段階で、遺伝子レベルで刻まれている感覚なのかもしれない。

この国でも、結婚するときは「お嬢さんをください」と父親に許可を求めることが通例である。

形式的なことだとしても、なんとなく、僕には、それがいいあり方だと思えない。本当に、男女平等の世の中であって欲しいと思っている。結婚の際、父親の許可など必要なく、当人同士で勝手に決められるのが当然であって欲しい。(もちろん、親の気持ちをないがしろにしていいという意味ではない。意見は聞くけれど、あくまで、決めるのは本人だということ)

僕が、もし結婚することになったら、「お嬢さんをください」とは言わずに、「○○さんと結婚します。よろしくお願いします」と言おうかなと、ふと思った。

許可を取るとか、許してもらうとか、もらうとか、奪うとか、そういうことではないという考え方であることを示したい。物じゃないのだから。

いつか、「お嬢さんをください。絶対に幸せにします」が過去の物になって、「○○さんと結婚します。よろしくお願いします」と言うのが、この国の常識になったら嬉しい。

それと、結婚後の名字も、まだ一般的には女が男の方に変わることが多いが、法律的には、どちらか好きな方みたいな感じになっているはずなので、「家」とか関係なく、できれば相手側の名字を採用したい。例えば「堀北佑陽」になりたい。

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